駒場

駒場と駒場野(18-11-9)

駒場公園と駒場野公園という2つの公園が井の頭線の線路を挟んである。駒場と駒場野とどう違うのか、なぜまぎらわしい名前になっているのか、調べてみた。

駒場公園も駒場野公園も徳川時代は駒場野狩場であり、その広さは15万坪で上目黒村に属していた。その広大な土地が明治になって駒場農学校の敷地となり、東京帝国大学農学部として、1935年に本郷などに移転するまで、現在の東京大学農学部の前身としてこの地にあった。

駒場野農学校ではゴロが悪いから駒場農学校にしたのではないかとも思われるがそれはわからない。いずれにせよ、駒場野から駒場へと名称が変わっていったようである。

それからくだって1967年、東京帝国大学農学部の敷地の一部で、前田侯爵邸となっていた部分が、都立駒場公園として開園した。それが1975年には目黒区に移管されて、現在目黒区立駒場公園となっている。さらに11年後の1986年、今度は、東京帝国大学農学部から独立して東京農業教育専門学校となり、その後東京教育大学となっていった敷地部分が駒場野公園として開園したのである。

駒場も駒場野も元は同じ地名とすると、記号としてそれぞれを覚えるしかない。アルファベットだとKOMABA PARK、KOMABANO PARKとなる。知らない人にはわかりにくいから楽しい、という人もいるかもしれない。しかし、このままでよいものだろうか。

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駒場公園と旧前田家本邸 (18-11-8)

駒場公園は目黒区の区立公園である。その敷地は1930年に竣工した前田侯爵家の屋敷跡なのであるが、公園の名前からはそのことが分からない。目黒区には西郷山公園があり、渋谷区に鍋島松濤公園、港区に有栖川宮記念公園と、それぞれ皇族・華族の邸宅跡であることを表しているから、前田駒場公園でもよさそうなのであるが、単に駒場公園と名付けられたのはなぜだろうか。

駒場公園が開園したのは1967年。1945年から57年までは米軍が接収していて、接収解除後の10年は活用方法の検討と、東京都近代文学博物館と日本近代文学館の開設準備などに費やされたのだろう。67年から都立の駒場公園として公開されたのである。目黒区に移管され区立駒場公園になったのは1975年である。

洋館の建物が東京都近代文学博物館として利用されていたのは1967年から2002年まで。博物館閉館に先立つ1991年に、東京都有形文化財「旧前田侯爵邸洋館」として登録されていた。

東京都近代文学博物館の閉館後は旧前田侯爵邸洋館として東京都の管理により公開されることになった。そして2013年に国の重要文化財に指定され、2016年から2年3カ月かけて修復工事を行い、先月27日に工事後の公開が実現したのである。

金沢の加賀前田家16代当主、前田利為侯爵が東洋一といわれた邸宅を建て、そこに住んでいたのは1930年から42年までのわずかに12年の期間ではあった。しかし陸軍軍人であった前田利為候自身の好みで、塚本靖(東京帝大名誉教授)の設計監督の下、高橋貞太郎(日本橋高島屋など設計)、雪野元吉(東京国立博物館など設計)、佐々木岩次郎(東本願寺など設計)、原熙(新宿御苑、京都御所など作庭)といった、当時の一流建築家を動員し、1927年から3年の歳月をかけて完成させた旧前田家本邸は、現在では再現できない素材も使われ、貴重な文化遺産となっている。

その洋館の修復により、ようやく文化遺産としての体裁が整ったので、駒場公園と名付けられた時代とは違い、この公園を重要文化財旧前田家本邸として自信をもって紹介できるだろう。

駒場公園と駒場野公園がまぎらわしくて困ることが多いという、生活上の理由もさることながら、今回の洋館の修復を記念する意味でも、また目黒区と金沢市とのつながりを示す意味でも、旧加賀前田家記念公園などに駒場公園の名称を変えることを提案したい。


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旧前田家本邸洋館がリニューアルなり公開 (18-10-26)

駒場公園にある重要文化財の旧前田家本邸洋館が、2016年から2年3カ月をかけて改修工事を行い、明日10月27日(土)に都の文化財ウィークに合わせていよいよ公開される。23日(火)には都知事、目黒区長などの出席によるオープニングセレモニーがあり、記者による取材もあったので、大手メディアによりすでに報道もされている。

文化財ウィークは27日(土)から11月4日(日)まで。この期間は普段は公開されない、洋館の東庭と和館の庭園が、ガイドの案内によるツアーにより見学することができる。特に今回の修復で水が出るようになった洋館東壁につけられた噴水、壁泉が文化財ウィーク中の目玉ともいえる。洋館と和館をつなぐ渡り廊下の外観を見ることができるのも、この期間ならではということになる。ただし雨天の場合は中止なので要注意。

洋館そのものは文化財ウィーク終了後も見学でき、2階の書斎、夫人室、寝室の復元・整備が特に注目されよう。

文化財ウィーク中の「駒場ガイドの会」によるボランティア・ガイドは、3つのコースごとに、毎朝10時から以下の要領で行われる。

A 洋館:
玄関を入って右側のサロンで受け付け。1階と2階と別のガイドが担当するが、スタートは1階から。それぞれ25分で、全体で50分のガイド時間となる。

B 和館および日本庭園:
和館玄関で受け付け。館内25分、日本庭園10分で合計35分程度の案内時間となる。

C 壁泉・渡り廊下外観:
洋館1階南テラス前で受け付け。洋館の外観と公園部分の案内の後、東庭に入り、壁泉と洋館東側と渡り廊下の外観を見学。案内時間は15分程度。

単純に足し算して100分。待ち時間など入れると2時間以上の見学時間となる。ガイドツアー中は円滑な進行のため写真撮影はお断りし、自由見学のできないCコースのみガイド後に写真撮影の時間を設ける。近所の方の写真撮影は、文化財ウィークの後の方が、混雑を避けられてよいだろう。公園の閉演は午後4時半なので、見学は早めに。

入園料・入館料・ガイド料が一切ない上、物販もないというのも珍しい。

壁泉
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ご夫人の部屋
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寝室
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書斎
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駒場農学校と現在 (18-10-3)

駒場野公園にあるケルネル田んぼは、駒場農学校のドイツ人教師オスカー・ケルネルがその名の由来である。駒場農学校は東京大学農学部の前身なのであるが、1935年(昭和10年)の本郷キャンパスに移転後、その一部であった現在の駒場野公園の場所が、東京教育大学農学部の前身である東京農業教育専門学校のキャンパスとなり、その経緯から東京教育大学付属駒場中・高校が筑波大付属中・高校となったため、東京教育大学の敷地にあったケルネル田んぼの田植えと稲刈りを筑波大付属中・高校の生徒が行い、収穫された米はその学校の行事に使われている。その水田は我が国初の試験田であり、ケルネルがそこで研究を行ったことからケルネル田んぼと名付けられたとされる。

駒場農学校の歴史は1874年(明治7年)1月、内務省の管轄で、現在は新宿御苑となっている場所にあった内藤新宿試験場内に農事修学場が設置されたことに遡る。1877年(明治10年)10月に農学校と改称され、12月には駒場野に移転をして、翌1878年1月24日に開校式を行った。

この時点での農学校教員5人はすべて英国人で、群馬県富士見村出身の船津伝次平がその後日本人として通訳以外で唯一人の教員になったようだ。船津伝次平の赴任が1878年1月の農学校駒場野移転の当初からであるのに対し、オスカー・ケルネルの着任は3年後の1881年なので、船津伝次平が農学校のパイオニアとなる。ケルネル田んぼを作ったのは船津伝次平であろう。

東京大学農学部の歴史よると、伝次平が農学校に赴任した当時、一人仮小屋に住まい、講義以外は実地開墾にいそしんだ。あるとき、大久保利通が船津を訪ね、仮小屋での一人住まいは心細かろう、といういたわりの言葉をかけたところ、次の句を詠んでこれに答えたという。「駒場野や 開き残しに くつわむし」

明治維新の元勲大久保利通は、農学校の教師の人選をした上、優等生への褒章費の基金となった多額の寄付をし、駒場野での天皇臨席の開校式では祝辞を述べている。船津伝次平の処遇にも影響を与えたようだ。その開校式からわずか5カ月後の5月14日、大久保利通は暗殺された。

農学校が駒場農学校に改称されたのは1882年。85年に船津伝次平が辞職した後、86年に東京山林学校、90年に帝国大学農科大学、97年東京帝国大学農科大学、1919年東京帝国大学農学部と改称されていった。その敷地は1935年に、一高と前田侯爵邸、東京農業教育専門学校(教育大農学部の前身)、航空研究所となり、教育大農学部の敷地跡が駒場野公園となったのである。

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台風に耐えた駒場のかかし(18-10-1)

昨日の「こまばのまつり」は雨のため会場を駒場小学校に移して実施された。その目玉であるかかしコンクールは、ケルネル田んぼに例年通り並べられていた。その後、夜半の台風の影響によって、井の頭線は1日の始発から9時過ぎまで運行停止となり、駒場野公園は倒木が何か所にもあって、通行が困難な状態になっている。

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そんな中にあって、ケルネル田んぼのカカシは無事だった。目黒区内だけではなく、前橋市、金沢市、ドイツ大使館などの関係者にもスポンサーになっていただいたかかしコンクールである。心配された向きも少なくないだろう。無事と知った実行委員長からは安堵の声があった。
かかしは11月10日に撤去されるまで、ケルネル田んぼに立ち続ける。雨でメイン会場を駒場小学校に移さざるを得なかったことは残念であったが、かかしに目立った被害がなく、これからしばらくの間、駒場の秋の風物詩として井の頭線の車窓からも見られる景色となることでよしとしよう。

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前の日の写真
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消えているかかしは、後日駅前に飾るため、保管されたものだろう。

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駒場の重要文化財-4(2018-6-5)

文化財は観光の対象ともなるが、その文化的価値を伝えることができてこそ、文化財としての意味がある。一方で、観光の対象としての評価が乏しいと、文化的価値に目をつけてもらえない。重要文化財旧前田家本邸は、東京大学の2つのキャンパスに囲まれた閑静な住宅地の中にあり、駅からも離れているので気づかれにくいということもあるだろう。

そして、旧前田家本邸ということで、何かの意味を感じてもらえるのか。たとえば、吉良上野介屋敷跡というと、いかにも観光資源といえるのであろうが、旧前田家本邸が加賀百万石の殿様の子孫の邸宅、ということだけで訪れてみたいと思うものだろうか。

使用人の数が136人もあったという昭和初期の侯爵家の邸宅であること。それを構想した前田利為侯爵の人物像と、現在にその技を残した建築家や職人たちの作品を見ることに価値があるといえるのだろう。
特に、前田利為侯爵の昭和史における位置づけを知ることで、戦時における政府首脳の意思決定の過程が見えてくるようでもあり、そこに他にはない魅力を感ずる。

目黒区立の公園にある国の重要文化財は、これまで忌避していたかもしれない時代の空気に改めて触れ、そして深く考える場になってほしい。

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駒場の重要文化財-3(2018-5-29)

前田家16代当主前田利為が駒場に旧前田家本邸を完成させたのは、明治の版籍奉還から約70年後。当主の居住期間はそれからわずか12年で、1945年から1957年の12年間は、米軍の空軍司令官・最高司令官の官邸として利用されることになった。その間地元の子供たちは、お祭りの時にチョコレートをもらったりもしたそうである。

その後、接収解除されてから6年後の1963年に駒場公園建設が決定。1967年に洋館を東京都近代日本文学博物館として一般公開し、庭園も都立駒場公園として遊具、パーゴラ等を整備し公開した。この年、公園の北側にある日本近代文学館も東京都近代日本文学博物館と同時開館している。

それから8年後の1975年に公園敷地と和館が目黒区に移管され、1976年にソメイヨシノ等の植樹があるなど、1999年までに和館と公園部分の整備が行われた。現在のような桜の名所になったのはそう古いことではない。

1991年には洋館が東京都有形文化財として指定され、3年後の2002年に洋館にあった東京都近代日本文学博物館が閉館となり、旧前田侯爵邸洋館として公開されていた。その後2013年に国の重要文化財に指定され、2015年10月から新築当時の姿への洋館の復元工事に入った。現在は洋館の公開が中止されている状態で、今年の10月にリニューアル公開される予定となっている。名称は現在も公開中の和館と合わせ「旧前田家本邸」である。

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駒場の重要文化財-2(2018-5-24)

昭和2年(1927)9月に前田利為が日本を出てから昭和5年(1930)9月に帰国する留守の間に、駒場の本邸の建築が行われた。帰国したのは利為45歳のときである。

最初に渡欧した1913年から1930年までの17年にわたる間、3年ずつ9年もヨーロッパに滞在したことになる。その間に、本郷に邸宅のあった日本にいたのは8年。今のように簡単には行けないばかりか、電報でなければ1か月以上かかる郵便物で情報を頼るしかないヨーロッパに、それだけの長期間滞在していると、世界の中での日本の見え方が当然違ってくるはずである。

年表で1913年から30年までのほぼ大正時代といってよい時代に生じた、ヨーロッパと日本での大きな出来事を拾ってみる。
第一次世界大戦(1914~18)、ロシア革命(1917)、パリ講和会議(1919)、国際連盟成立(1920)、ソ連邦成立(1922)、関東大震災(1923)、日本でラジオ放送開始(1925)、治安維持法・普通選挙法(1925)、パリ不戦条約(1927)、世界恐慌(1929)、ロンドン軍縮会議(1930)。
これらの出来事に、職務と社交を通じて日本と欧州で直接関わっていたことを想うと、若いころから親交があったという公爵近衛文麿をしのぐ国際感覚があったことは間違いなかろう。近衛文麿も日米開戦をためらったが、そのため内閣総辞職、東条英機が総理大臣となって太平洋戦争に突入する。

利為が神戸港に帰着したのは9月27日。それに先立ち上海で出迎えを受け、国内情勢について報告を受けている。駒場の新邸に着いたのは翌28日で、その日の午後には新任地の近衛歩兵第二連隊長として着任し、そのまま宮中・宮家を回って、夜帰邸。しかし、翌日には千葉(四街道)の下志津厩舎に向かい、10月8日になってようやく夫婦での親族への帰朝挨拶をすませた。

それから7年後の昭和12年(1937)11月から1年間満州に師団長として赴任したが、翌年12月末に参謀本部付として帰国。翌昭和14年(1939)1月末で予備役となり、現役軍人としてのキャリアを終えた。

冷静に事態に対処しようとする利為は「臆病者、平和主義者、米英迎合型人物」として中央から遠ざけられたらしい。そのような環境の中、戦後には消防団となる目黒警防団を結成せしめ、自ら後援会長になってその育成を図ったのである。

日米開戦により昭和17年(1942)4月、ボルネオ守備軍司令官の命を受け、5月に北部ボルネオに到着した。しかし、その年の9月に飛行中行方不明となり、10月に57歳の前田利為の遺体が引き上げられることになる。この年、従兄弟の近衛文麿が51歳、陸士同期の東条英機が58歳であった。

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駒場の重要文化財(2018-5-19)

駒場公園は、加賀藩主であった前田家の本邸として昭和5年(1930)から終戦間際まで使われていたものを、占領軍による接収を経て、昭和42年(1967)に都立駒場公園として開園し、昭和50年(1975)から目黒区立の公園となって現在に至っているものである。平成25年(2013)には重要文化財に指定され、旧前田家本邸として保存管理の基本方針が定められている。

加賀藩主の前田家は、戦国武将である前田利家を始祖とし、徳川時代の大名として最大の石高を誇り、加賀百万石として知られていた。加賀藩の江戸藩邸は、現在東京大学の本郷キャンパスとなっている場所にあり、明治維新後もその一部が前田家の私邸として認められて、明治38年(1905)に和館(居館)、明治40年(1907)に西洋館(迎賓館)を竣工させた。

加賀藩邸跡地は明治10年(1878)から東京帝国大学として、医学部から順次キャンパスが整備されていたが、大正12年(1923)9月の関東大震災を契機として、隣接する水戸藩邸跡の敷地に明治22年(1889)以降立地していた第一高等学校とほぼ同時期に、駒場の帝大農学部と土地の交換をすることになった。

駒場の土地は徳川幕府の鷹狩り場として利用されていたもので、明治11年(1878)から駒場農学校が設立され、本郷キャンパス内の弥生キャンパスに移転した現在の東京大学農学部へと学校は引き継がれている。駒場農学校の敷地となった土地が、現在の駒場ⅠキャンパスとⅡキャンパスの部分と、当時の前田侯爵家のものになったのである。

前田家は14代慶寧(よしやす)が明治2年(1869)に版籍奉還をし、華族として家禄・章典録を得、明治17年(1884)の華族令発布により、15代の利嗣(としつぐ)が侯爵となった。駒場に邸宅を構えたのはその養子となった16代の利為(としなり)なのである。

前田利為は明治33年(1900)に15歳で前田家第16代の当主となり、侯爵の爵位も継承した。明治38年(1905)日露戦争の最中に陸軍士官学校を卒業。明治41年(1908)陸軍大学に入学し、44年(1911)26歳のときに卒業。それから2年足らずの大正2年(1913)に欧州への私費留学をすることになった。当初はドイツに滞在したが、その間に第一次大戦が勃発。日本のドイツへの宣戦により大正4年(1915)にはイギリスに移り、日英同盟の関係のあるイギリス軍に従軍もした。ヨーロッパでの戦争が激しさを増す中、大正5年(1916)12月に帰国した。31歳のときである。

それから3年後となる大正9年(1920)2月から大正12年(1923)6月まで3年余りの期間再度ヨーロッパに滞在。その間の大正10年5月には、それから5年後に天皇に即位することになる、留学中の20歳になった皇太子をイギリスで出迎えている。利為は35歳であった。当時のヨーロッパは大戦の戦後処理の最中であり、それを現地でどのように見ていたのだろうか。

帰国してまもない大正12年9月には関東大震災が発生。その影響もあり、大正14年(1925)に本郷邸を移譲し、駒場に新たな邸宅を新築することを決め、翌年7月に駒場で地鎮祭を行った。更にその翌年で元号が改まった昭和2年(1927)、駐英大使館附き武官としてイギリスに赴任することになった。今ならロンドンまでノンストップで12時間半なのだが、この時は9月13日に出発してロンドン到着が10月29日。46日もかけた長旅であり、それだけ日本からは遠い世界の住民に3度なったことは記憶にとどめたい。(続く)

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駒場の桜が満開(2018-3-28)

今、東京は桜が満開。その中でも駒場公園と駒場野公園はあまり知られていない桜の名所といえるだろう。平日の今日、花見に来ている人たちでいつもよりは多いとはいえ、混雑とは程遠く、暖かな花曇りの中で一瞬の饗宴を惜しむかのようであった。この2~3日で散り始めると同時に、本格的に春の訪れということになる。

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駒場公園

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駒場野公園

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駒場野公園拡張部分

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