旧前田家本邸の主人がいた時代(2023-10-30)
重要文化財旧前田家本邸は「昭和初期の上流華族の生活をうかがい知ることができる貴重な文化財」であるとされる。この邸宅の主人であった前田利為侯爵が住んでいたのは1930年9月末から1942年4月までの11年と6カ月足らず。しかし、この時期は日中戦争から米国との戦争に入るという激動の時代であり、誰がどのような考えで動いたのかを知ることは、政治史を学ぶ上での課題になるだろう。
前田利為は侯爵で25歳から貴族員議員という立場と、陸軍士官学校を卒業した陸軍軍人としての立場を兼ね持つ。軍人としては、近衛歩兵第2連隊長、参謀本部第4部課長、歩兵第2旅団長、参謀本部第4部長、陸軍大学校校長、第8師団長(弘前)を1938年12月まで務め、その後予備役に編入されて日米開戦後、ボルネオ守備軍司令官となって1942年4月25日に駒場邸を離れた。
前田利為は歴史の表舞台に立つことはなかったが、この1930年代という日本の歴史が激しく動いた時代の主役、準主役の面々とのつながりには注目すべきものがあった。
駒場の前田邸への主な皇族・軍人・政治家の来客者の名前を時期の早い順にあげる。若槻礼次郎夫妻、幣原喜重郎(31年6月)、閑院宮親王(31年12月)、真崎甚三郎、梅津美治郎、永田鉄山、東條英機(33年4月)、広田弘毅(34年3月)、近衛文麿(34年5月)、高松宮親王(35年)といった、時代を動かした人々である。なかでも重要なのは、各国の外交官を招いたことだろう。特にアメリカ大使ジョセフ・グルーは、34年、35年、36年、37年、39年、40年、41年とほぼ毎年招待している。38年は満州勤務で駒場にはいなかったから、ジョセフ・グルーが1932年から1941年にわたって駐日大使を務めた中で、ほぼ毎年私邸で意見交換をしたのだから、それが日米開戦に向けて双方にどのような影響があったか、これからの研究課題になると思われる。グルーは膨大な日記を残しており、『滞日十年』の邦訳で出版されているが、その全貌は研究途上のようである。
重要文化財旧前田家本邸は、建物が重要文化財であるだけでなく、日本の歴史を考える場としての価値をも知っておきたい。
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