旧前田家本邸を建てた人(2023-1-31)
目黒区の駒場公園は、重要文化財旧前田家本邸でもある。目黒区は庭園と和館の管理をしているが、洋館の管理は東京都の管轄なので、全体としてどこのものなのかが分かりにくいようにも思える。
前田家は加賀百万石の殿様だから、石川県から見れば、その住居跡は昭和にできた建物とはいえ、江戸上屋敷跡のようなものだろう。もちろん江戸上屋敷は本郷にあったのだが、前田家は昭和になって駒場に移転した。その時の当主が前田利家から数えて16代目となる前田利為侯爵である。1942年にボルネオで戦没していることもあり、余り知られていないようだが、現代に続く功績の一つとして、消防団の元になった警防団の結成がある。
1986年に刊行された伝記『前田利為』からその箇所を引用する。
「利為侯の国家観は政治、経済、外交、文化等あらゆる分野において均衡のとれた発展と、その発展を期するための平和の維持にあった。(中略)しかし、時局は内外共に刻一刻世界動乱への歩みを続け、(引用者注1939年)9月3日ついに第二次欧州大戦が勃発し、わが国も枢軸国寄りの態度を逐次鮮明にしつつ世界動乱に対処する戦争準備に突入した。かかる情勢の中で、利為侯はまず東京学生自動車連名会長、目黒区警防団後援会長等に推挙され、更に機械化協会の結成に尽力した。(中略)警防団後援会長就任は第一次欧州大戦並びに関東大震災の経験に基づき、航空機の発達した今次世界動乱は戦線銃後の別なく大空襲は避け得ざるものとの判断から、まず地元である目黒区に警防団を結成せしめ、自ら後援会長となってその育成を図り、全国的組織に拡大して有事本土防衛に役立たせしめんとする深慮に基づくものであった。
これがため自動車連盟学生を八月十四日より一週間山欣荘裏山に幕営せしめ、空襲、暴動、災害等の状況を想定してこれに対する連盟活動の基本を教育し、十月十四日には駒場邸に園遊会を催して目黒警防団員を招待し、有事における警防団の任務を説述したのを最初とし、数次にわたり教育訓練に臨んで、その育成に努めた。この努力は時局の進展と共に自動車連盟は全国的組織の大日本機械化義勇団に発展し、目黒警防団は全国各地に結成された警防団の嚆矢となった。」(373-374頁)
全国の消防団の前身である警防団の嚆矢が目黒区にあったことは、目黒区の関係者の間で知られているのだろうか。金沢の人たちには敬意をもって意識されている前田利為侯爵なのだが、目黒の人にとっては封建遺制の人だったのかもしれない。
前田利家はNHK大河ドラマでは「利家とまつ」で2002年に放送されている。今年の「どうする家康」でも後半に登場しそうである。聖地、旧前田家本邸として目黒区観光協会などが演出するのもよいだろう。