駒場住宅跡地整備計画に対する意見―5(2022-9-12)
<駒場らしさとは>
計画のコンセプトは「地域資源を活用し、社会課題を解決することで、駒場らしさが持続するまちづくりを行います」としている。
駒場らしさを○○らしさと置き換えればどこでも通用するようなフレーズなのだが、住民説明資料のコンセプトから、駒場らしさとは何かを読み取ることはできない。
何が駒場らしさなのかは、人により理解が違うだろうが、まず、範囲は住居表示が駒場のエリア、駒場町会のカバーする地域についてである。
南は淡島通り、東は山手通り、北は航研通りともコスモ通りとも呼ばれることもあるが、通称にはなっていない。山手通りと中野通を結ぶ道である。西は駒場通りとなっている。
それら駒場を囲む道路以外には、一方通行でなくとも、車がすれ違うことのできる道はない。それが駒場らしさであることには気づきにくいかも知れないが、まちづくりを考える上では重要である。再開発で道幅を広げるべきと行政は考えるかもしれないが、そのような動きはないし、そうしたいと思う住民はほとんどいないだろう。
駒場の歴史は徳川時代の鷹狩場にはじまる。淡島通りの南側には御用屋敷があり、徳川将軍は鷹狩の後、御用屋敷で休憩したそうで、御成道(おなりみち)というのもあったようである。鷹狩場は明治になって駒場農学校となった。東大農学部の前身である。駒場のほとんどは実験農場であった。駒場野公園のケルネル田んぼにその面影を残す。
昭和に入り、駒場の農学部キャンパスが本郷に移転することになり、本郷の帝国大学に隣接していた、現在も赤門が残る前田侯爵邸が駒場に移ることになった。前田侯爵とは加賀百万石の大名家。それが現在の駒場公園の重要文化財旧前田家本邸なのである。
徳川家と前田家だけではない。京王線に聖蹟桜ヶ丘という駅があるが、駒場東大前の駅名は聖蹟駒場としてもよいほどの大きな聖蹟碑が駅前にある。明治維新当初、明治政府の軍隊として最初閲兵が駒場であり、そのことを記念する石碑なのだ。
そして現在、駒場には東京大学駒場Ⅰキャンパスと駒場Ⅱキャンパスがある。その間に旧前田家本邸のある駒場公園が井の頭線の線路の北側に、線路の南側には都立国際高校と駒場野公園が整備計画地に隣接してある。
車の通行に適さない駒場の中心にあるのが駒場東大前駅。利用者は東京大学の学生と職員、都立国際高校、都立駒場高校、日本工業大駒場高・中校、筑波大付属駒場高・中校、駒場東邦高・中校の学校関係者が過半であろう。
そのような「駒場らしさ」が持続するまちづくりとは何か。老人ホームと学生寮が主体となる施設が駅前にできる。ならばそれらをどういうものにするかが問われる。東横線多摩川駅前には大田区立田園調布せせらぎ館がある。設計は隈研吾。駒場らしさが持続する施設の外観は、決してコストダウンを優先すべきではない。住友商事ならそれができる。
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