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2021年9月

これからの目黒区駒場(2021-9-18)

目黒区が誕生したのは1937年、目黒町と碑衾町が合併したもの。目黒町は上目黒・中目黒・下目黒・三田の4村の合併により1889年に目黒村になったものが、1922年に村から目黒町になっていたのである。

1590年にこの4村が徳川の直轄地になったとされるから、それぞれの村では、それ以前からほとんど変わることない生活が農業を中心として続けられてきたのだろう。東京湾に直接注ぐ目黒川の水が、古来この地域の生活を支えていたことは確かである。

目黒区史の資料編によると、1872年(明治5年)の上目黒村の世帯数と人口は、世帯数;218、人口;1205である。上目黒村は、ほぼ現在の上目黒、青葉台、東山、大橋、駒場に当たるので、その合計を見ると、世帯数31726、人口55143(2021年9月1日)となっている。世帯数で145倍、人口で45倍である。

上目黒村には小名が8つあり、単純に割ると、各小名の世帯数は平均27世帯となる。現在の感覚からすると、小規模の集合住宅並みの世帯数で一つの地域社会を構成していたことになる。

それから150年の間に、それ以前の恐らく2000年以上続いていた自然の中にあった景観がみるみるうちに変わっていった。道路が舗装され、目黒川やその支流がコンクリートに囲まれるようになったのは、この60年前からのことであり、それは誇らしいものでしかなかったのではないか。

しかし、人口が減少する傾向に入り、2050年までのカーボンニュートラルの実現に向けて、これからどのような地域景観の変化が見られるのだろうか。

一つの指標は生物多様性。さまざまないきものが暮らせる環境なのか、そうではないのか。ムシは嫌われることが多いけれど、ムシとの共生が進むことが期待されているようである。

 

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駒場の1万年(2021-9-16)

駒場の地形は1万年以上前からそれほど変わっていないようである。大橋2丁目の大橋遺跡と呼ばれているエリアでの発掘調査で3万年前の地層から旧石器が発見されている。人類がこのあたりにも来ていたということを物語る。

大橋遺跡では4千年前から5千年前の縄文時代の竪穴住居跡が98軒発見されており、当時の人たちは流域の定まらない目黒川の水を利用できる台地に居を構え、川辺の植物や生物を食材として暮らしていたのであろう。

 それから150年前までの数千年もの期間、駒場の風景をつくる地形、土、植物、生物にはどれだけの変化があったのだろうか。低地は目黒川が自然のまま雨が降ると氾濫しながら流れ、遠くには富士山から秩父の山々が見えていた。人家は食料を自給できる範囲でしかなかったろうから、見渡す限り田畑と雑木林だった。その様子は『江戸名所図会』で想像できる。そこには今では見られなくなった様々な生き物が数多くいたことだろう。

 悠久の年月を経て変化が始まったのは、わずか130年前の1891年以降、陸軍が氷川台一帯に兵舎などを建ててからである。1907年には路面電車の玉電が氷川神社の下を走るようになり、初めて自然環境に変化が見られたのではないだろうか。

 それから、すべての道から土が見えなくなるのはわずかに60年前からのこと。コンクリートの集合住宅が密集するようになり、富士山が見える場所が少なくなった。目黒川の源流もすべて暗渠となって、自然は視界から消えていった。

 自然環境の変化を推測するきっかけとなるのは、1707年の宝永大噴火を最後とする富士山の噴火で、古文書によると、781年以降に17回の噴火記録があるとされる。そのたびに火山灰がこの地にも降って、耕作地やいきものへの影響はあったのだろうが、それでも自然環境に大きな変化はなかったと思われる。

 上目黒氷川神社は400年余り前の天正年間に迎えられたとされるが、神社はそれ以前から、何らかの形でその場所にあったと考えるべきだろう。そこからは目黒川河口にあたる品川宿までの眺望が100年前まではあったのではないか。富士山は境内からも45年前の昭和60年ごろまで見ることができたそうである。

 これから先はどうなるのか。木造の建物だけではなくなったのは100年ほど前からのこと。これ以上人口は増えない中で、50年先を見た街づくりの夢はどんなものなのだろう。

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