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前田侯爵邸と鍋島侯爵邸(19-8-7)

重要文化財旧前田家本邸が前田侯爵の邸宅であった期間は昭和5年から17年までのわずか12年。その頃、邸宅の隣は、現在は東大教養学部のキャンパスとなっていて、その先、渋谷区松濤には鍋島侯爵家の邸宅があった。直線距離なら前田邸からちょうど1キロという位置になる。

邸宅は現在の松濤中学とその周囲を含んでいたようで、当時の地図を見ると、その敷地面積は前田侯爵邸に劣らなかったようである。鍋島松濤公園は鍋島家が昭和7年に東京都に寄贈したもので、現在は渋谷区立公園となっているが、その部分は鍋島侯爵の邸宅の敷地ではなかった。

鍋島家は佐賀藩の大名家で石高は35.7万石。石高では長州萩藩と水戸藩との間であるから、明治になって侯爵とされたのだろう。

徳川時代には紀伊徳川家の下屋敷だった松濤を鍋島家が明治になって買受け、茶畑としていたのだが、その中心部を邸宅とし、茶畑は住宅地として分譲されていった。

また、鍋島直大侯爵の3女が前田家15代当主前田利嗣の夫人となり、その長女と養子となって結婚したのが駒場に邸宅を作った前田家16代当主の前田利為侯爵なのである。

鍋島直大侯爵の2女は松平恒夫に嫁ぎ、その邸宅は駒場に前田邸ができた当時松濤にあった。松平恒雄は会津藩主松平容堂の6男で、昭和5年に利為侯爵が駐在武官として滞英中に駐英国大使であったという縁もある。

昭和20年5月の山手大空襲で松濤も多くの住宅が焼け、鍋島侯爵邸の跡地に昭和26年、松濤中学の校舎が建設された。

前田侯爵邸が激動の昭和初期の姿を現在に残していることの意義を考えさせるものである。

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