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2018年10月

目黒区高齢者運動会 (18-10-17)

今年で第80回という目黒区高齢者運動会が目黒区田道広場公園で開催された。毎年1回の開催だと1939年、昭和14年からということになるのだが、春秋2回開催されていた時期もあるそうなので。いつからということはすぐにはわからない。戦前からあったとすれば、戦時中など開催されなかった年もあるだろうし。

主催は目黒区老人クラブ連合会で、目黒区が協力という形になっている。共催ではない。
この種のイベントによくある来賓もなく、プログラムにあった区長挨拶も、開会前に顔を出したというもの。警察署から特殊詐欺への注意喚起があり、会場を回っていた。

目黒区には40の老人クラブがあり、そのうちの35クラブが運動会に参加した。青・黄・白・赤の4チームをそれぞれ8~9のクラブから編成し、7種目で得点を競うというものである。参加者はそれぞれのチームごとに延べ264名。参加者は2回か3回競技に出場するため、全体で4~5百名の参加というところだろうか。家族などの応援は見られなかった。

競技種目は、輪投げリレー、グラウンドゴルフボール送り、順送球、大玉転がし、ボビン転がし、ラケットボール送り、紅白玉入れの7つ。午前10時から午後3時30分までの長時間、70代を中心とする高齢者が、グランドで応援、出番待ち、競技出場という形で時間を過ごすことになる。最高齢はわかっているだけでも91歳の男性が参加している。

高齢者運動会と聞いただけで、危ないと思う人も少なくあるまい。看護師2名が待機しての開催である。とはいえ、生活する上で高齢者ゆえのリスクは多い。競技に参加できるのであれば、参加したことにより危険度がそれほど増すとも思えない。走れば転ぶこともあるかもしれないが、走る機会があってもよいのではないか。そうすることで転倒予防になるかもしれない。

いずれにせよ、この運動会に参加できる高齢者は、健康には恵まれているといえる。

開会式
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輪投げリレー
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グラウンドボール送り
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順送球
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大玉転がし
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目黒区氷川遺跡の調査 (18-10-16)

上目黒氷川神社の北側で埋蔵文化財発掘調査が行われている。平成22年の1次調査、23年の2次調査、平成25年から26年にかけての3次調査に続く、4次調査ということになる。

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これまでの3回の調査で、旧石器時代の黒曜石の石器、縄文時代の土器、古墳時代の竪穴住居跡が見つかっており、隣接する大橋遺跡、騎兵山遺跡と共に目黒川上流の崖の上で、何千年も前から生活する人のあったことが確認できている。

氷川遺跡の南側には上目黒氷川神社があるが、それよりも古いとされる稲荷神社が境内の片隅にある。氷川神社は南北軸から多少ずれがあるが、稲荷神社は正確に南北軸に建てられている。全国の国分寺は正確な南北軸であるそうで、氷川遺跡住居の守護神として古くからあったものと推測される。

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今回の調査結果は再来年の4月には見ることができるのであろうが、周辺遺跡の調査結果と総合する形での分析にはさらに時間がかかる。石器時代の黒曜石の流通経路から古墳の分布、大和朝廷とのつながりなど、江戸幕府成立以前の武蔵の国の姿を研究する貴重な基礎資料とはいえ、実際にそのデータに基づく分析が行われ、その結果が広く知られるようになるには、10年単位の年月を要するのであろう。

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上目黒氷川神社でおかげマルシェ (18-10-8)

上目黒氷川神社は現在の住所では上目黒ではなく大橋にある。なので、現在の目黒区上目黒にある神社かと誤解する人もいるらしい。江戸時代には、上目黒村、中目黒村、下目黒村があり、現在の目黒区上目黒以北は上目黒村であった。上八町会とか上八北自治会というのは、その地域が上目黒八丁目であったことの名残である。

氷川神社は東京では赤坂氷川神社が広く知られているが、近隣では渋谷氷川神社、八雲氷川神社もある。なので、上目黒氷川神社と呼ばなくてはならないのだが、旧上目黒の範囲内であれば、氷川神社でよいのだろう。地元の人だと氷川さまという。しかし、大橋の氷川神社と呼ぶと正式名称があいまいになるので避けたいところ。大橋の町名は50年ほど前からのものなので、歴史の重さがなくなる。上目黒氷川神社の創建は16世紀後半の天正年間で、歴史の古さでは、鎮座100年を2020年に迎える明治神宮や、来年創立150年となる靖国神社を遥かにしのぐ。

そんな神社の境内で「おかげマルシェ」と称する青空市場が開催された。おかげマルシェ実行委員会の主催によるもので、協力が上目黒氷川神社、後援が目黒区社会福祉協議会となっている。
内容は、神楽殿での日本舞踊などのパフォーマンスや、駒場高校茶道部による抹茶席、木目込み人形の販売などの伝統文化紹介から、産地直送農産物の販売などのさまざまな物販まで多彩であった。

心配された雨も降らず、大勢のさまざまな年代の人たちで境内が埋まった。何十年ぶりかの賑わいだという人もいた。初めてのことで、しかも企画してから短い準備と告知期間にも関わらず、ということなのである。
来年も継続されるようであるが、歴史ある神社の境内が、新しい時代に合わせたスタイルで地域社会の交流の場となっていくことが期待できよう。

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駒場農学校と現在 (18-10-3)

駒場野公園にあるケルネル田んぼは、駒場農学校のドイツ人教師オスカー・ケルネルがその名の由来である。駒場農学校は東京大学農学部の前身なのであるが、1935年(昭和10年)の本郷キャンパスに移転後、その一部であった現在の駒場野公園の場所が、東京教育大学農学部の前身である東京農業教育専門学校のキャンパスとなり、その経緯から東京教育大学付属駒場中・高校が筑波大付属中・高校となったため、東京教育大学の敷地にあったケルネル田んぼの田植えと稲刈りを筑波大付属中・高校の生徒が行い、収穫された米はその学校の行事に使われている。その水田は我が国初の試験田であり、ケルネルがそこで研究を行ったことからケルネル田んぼと名付けられたとされる。

駒場農学校の歴史は1874年(明治7年)1月、内務省の管轄で、現在は新宿御苑となっている場所にあった内藤新宿試験場内に農事修学場が設置されたことに遡る。1877年(明治10年)10月に農学校と改称され、12月には駒場野に移転をして、翌1878年1月24日に開校式を行った。

この時点での農学校教員5人はすべて英国人で、群馬県富士見村出身の船津伝次平がその後日本人として通訳以外で唯一人の教員になったようだ。船津伝次平の赴任が1878年1月の農学校駒場野移転の当初からであるのに対し、オスカー・ケルネルの着任は3年後の1881年なので、船津伝次平が農学校のパイオニアとなる。ケルネル田んぼを作ったのは船津伝次平であろう。

東京大学農学部の歴史よると、伝次平が農学校に赴任した当時、一人仮小屋に住まい、講義以外は実地開墾にいそしんだ。あるとき、大久保利通が船津を訪ね、仮小屋での一人住まいは心細かろう、といういたわりの言葉をかけたところ、次の句を詠んでこれに答えたという。「駒場野や 開き残しに くつわむし」

明治維新の元勲大久保利通は、農学校の教師の人選をした上、優等生への褒章費の基金となった多額の寄付をし、駒場野での天皇臨席の開校式では祝辞を述べている。船津伝次平の処遇にも影響を与えたようだ。その開校式からわずか5カ月後の5月14日、大久保利通は暗殺された。

農学校が駒場農学校に改称されたのは1882年。85年に船津伝次平が辞職した後、86年に東京山林学校、90年に帝国大学農科大学、97年東京帝国大学農科大学、1919年東京帝国大学農学部と改称されていった。その敷地は1935年に、一高と前田侯爵邸、東京農業教育専門学校(教育大農学部の前身)、航空研究所となり、教育大農学部の敷地跡が駒場野公園となったのである。

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台風に耐えた駒場のかかし(18-10-1)

昨日の「こまばのまつり」は雨のため会場を駒場小学校に移して実施された。その目玉であるかかしコンクールは、ケルネル田んぼに例年通り並べられていた。その後、夜半の台風の影響によって、井の頭線は1日の始発から9時過ぎまで運行停止となり、駒場野公園は倒木が何か所にもあって、通行が困難な状態になっている。

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そんな中にあって、ケルネル田んぼのカカシは無事だった。目黒区内だけではなく、前橋市、金沢市、ドイツ大使館などの関係者にもスポンサーになっていただいたかかしコンクールである。心配された向きも少なくないだろう。無事と知った実行委員長からは安堵の声があった。
かかしは11月10日に撤去されるまで、ケルネル田んぼに立ち続ける。雨でメイン会場を駒場小学校に移さざるを得なかったことは残念であったが、かかしに目立った被害がなく、これからしばらくの間、駒場の秋の風物詩として井の頭線の車窓からも見られる景色となることでよしとしよう。

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前の日の写真
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消えているかかしは、後日駅前に飾るため、保管されたものだろう。

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