駒場農学校と現在 (18-10-3)
駒場野公園にあるケルネル田んぼは、駒場農学校のドイツ人教師オスカー・ケルネルがその名の由来である。駒場農学校は東京大学農学部の前身なのであるが、1935年(昭和10年)の本郷キャンパスに移転後、その一部であった現在の駒場野公園の場所が、東京教育大学農学部の前身である東京農業教育専門学校のキャンパスとなり、その経緯から東京教育大学付属駒場中・高校が筑波大付属中・高校となったため、東京教育大学の敷地にあったケルネル田んぼの田植えと稲刈りを筑波大付属中・高校の生徒が行い、収穫された米はその学校の行事に使われている。その水田は我が国初の試験田であり、ケルネルがそこで研究を行ったことからケルネル田んぼと名付けられたとされる。
駒場農学校の歴史は1874年(明治7年)1月、内務省の管轄で、現在は新宿御苑となっている場所にあった内藤新宿試験場内に農事修学場が設置されたことに遡る。1877年(明治10年)10月に農学校と改称され、12月には駒場野に移転をして、翌1878年1月24日に開校式を行った。
この時点での農学校教員5人はすべて英国人で、群馬県富士見村出身の船津伝次平がその後日本人として通訳以外で唯一人の教員になったようだ。船津伝次平の赴任が1878年1月の農学校駒場野移転の当初からであるのに対し、オスカー・ケルネルの着任は3年後の1881年なので、船津伝次平が農学校のパイオニアとなる。ケルネル田んぼを作ったのは船津伝次平であろう。
東京大学農学部の歴史よると、伝次平が農学校に赴任した当時、一人仮小屋に住まい、講義以外は実地開墾にいそしんだ。あるとき、大久保利通が船津を訪ね、仮小屋での一人住まいは心細かろう、といういたわりの言葉をかけたところ、次の句を詠んでこれに答えたという。「駒場野や 開き残しに くつわむし」
明治維新の元勲大久保利通は、農学校の教師の人選をした上、優等生への褒章費の基金となった多額の寄付をし、駒場野での天皇臨席の開校式では祝辞を述べている。船津伝次平の処遇にも影響を与えたようだ。その開校式からわずか5カ月後の5月14日、大久保利通は暗殺された。
農学校が駒場農学校に改称されたのは1882年。85年に船津伝次平が辞職した後、86年に東京山林学校、90年に帝国大学農科大学、97年東京帝国大学農科大学、1919年東京帝国大学農学部と改称されていった。その敷地は1935年に、一高と前田侯爵邸、東京農業教育専門学校(教育大農学部の前身)、航空研究所となり、教育大農学部の敷地跡が駒場野公園となったのである。
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コメント
東大農学部の清水と申します。東大農学部の歴史を紹介して下さり、ありがとうございます。以前より、そちらのブログは楽しく拝見させていただいております。農学部のサイトでは、他の歴史資料をもとに船津伝次平の採用が明治11年1月と書きましたが、大久保利通が5月に暗殺されたのに「くつわむし」のエピソードはいつのことかと聞かれたことがありました。実は謎は解けていません。しかし、明治天皇が開校式でキャンパスを閲覧したとき、農場では、本邦農場だけを訪問しています。ということは、本邦農場はすでにそのとき開墾されつつあり、船津伝次平は実際には、正式採用の前から駒場に来て開墾に携わっていたのではないかと考えています。そのあたり、裏付けはないですが、ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけますと幸いです。
投稿: 清水謙多郎 | 2018年10月 3日 (水) 15時14分
コメントありがとうございます。船津伝次平については、伝治平出身地の前橋市富士見にある伝治平倶楽部に相談するなどして、調査するようにいたします。
投稿: 管理人 | 2018年10月 3日 (水) 19時49分