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2018年5月

駒場の重要文化財-2(2018-5-24)

昭和2年(1927)9月に前田利為が日本を出てから昭和5年(1930)9月に帰国する留守の間に、駒場の本邸の建築が行われた。帰国したのは利為45歳のときである。

最初に渡欧した1913年から1930年までの17年にわたる間、3年ずつ9年もヨーロッパに滞在したことになる。その間に、本郷に邸宅のあった日本にいたのは8年。今のように簡単には行けないばかりか、電報でなければ1か月以上かかる郵便物で情報を頼るしかないヨーロッパに、それだけの長期間滞在していると、世界の中での日本の見え方が当然違ってくるはずである。

年表で1913年から30年までのほぼ大正時代といってよい時代に生じた、ヨーロッパと日本での大きな出来事を拾ってみる。
第一次世界大戦(1914~18)、ロシア革命(1917)、パリ講和会議(1919)、国際連盟成立(1920)、ソ連邦成立(1922)、関東大震災(1923)、日本でラジオ放送開始(1925)、治安維持法・普通選挙法(1925)、パリ不戦条約(1927)、世界恐慌(1929)、ロンドン軍縮会議(1930)。
これらの出来事に、職務と社交を通じて日本と欧州で直接関わっていたことを想うと、若いころから親交があったという公爵近衛文麿をしのぐ国際感覚があったことは間違いなかろう。近衛文麿も日米開戦をためらったが、そのため内閣総辞職、東条英機が総理大臣となって太平洋戦争に突入する。

利為が神戸港に帰着したのは9月27日。それに先立ち上海で出迎えを受け、国内情勢について報告を受けている。駒場の新邸に着いたのは翌28日で、その日の午後には新任地の近衛歩兵第二連隊長として着任し、そのまま宮中・宮家を回って、夜帰邸。しかし、翌日には千葉(四街道)の下志津厩舎に向かい、10月8日になってようやく夫婦での親族への帰朝挨拶をすませた。

それから7年後の昭和12年(1937)11月から1年間満州に師団長として赴任したが、翌年12月末に参謀本部付として帰国。翌昭和14年(1939)1月末で予備役となり、現役軍人としてのキャリアを終えた。

冷静に事態に対処しようとする利為は「臆病者、平和主義者、米英迎合型人物」として中央から遠ざけられたらしい。そのような環境の中、戦後には消防団となる目黒警防団を結成せしめ、自ら後援会長になってその育成を図ったのである。

日米開戦により昭和17年(1942)4月、ボルネオ守備軍司令官の命を受け、5月に北部ボルネオに到着した。しかし、その年の9月に飛行中行方不明となり、10月に57歳の前田利為の遺体が引き上げられることになる。この年、従兄弟の近衛文麿が51歳、陸士同期の東条英機が58歳であった。

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駒場の重要文化財(2018-5-19)

駒場公園は、加賀藩主であった前田家の本邸として昭和5年(1930)から終戦間際まで使われていたものを、占領軍による接収を経て、昭和42年(1967)に都立駒場公園として開園し、昭和50年(1975)から目黒区立の公園となって現在に至っているものである。平成25年(2013)には重要文化財に指定され、旧前田家本邸として保存管理の基本方針が定められている。

加賀藩主の前田家は、戦国武将である前田利家を始祖とし、徳川時代の大名として最大の石高を誇り、加賀百万石として知られていた。加賀藩の江戸藩邸は、現在東京大学の本郷キャンパスとなっている場所にあり、明治維新後もその一部が前田家の私邸として認められて、明治38年(1905)に和館(居館)、明治40年(1907)に西洋館(迎賓館)を竣工させた。

加賀藩邸跡地は明治10年(1878)から東京帝国大学として、医学部から順次キャンパスが整備されていたが、大正12年(1923)9月の関東大震災を契機として、隣接する水戸藩邸跡の敷地に明治22年(1889)以降立地していた第一高等学校とほぼ同時期に、駒場の帝大農学部と土地の交換をすることになった。

駒場の土地は徳川幕府の鷹狩り場として利用されていたもので、明治11年(1878)から駒場農学校が設立され、本郷キャンパス内の弥生キャンパスに移転した現在の東京大学農学部へと学校は引き継がれている。駒場農学校の敷地となった土地が、現在の駒場ⅠキャンパスとⅡキャンパスの部分と、当時の前田侯爵家のものになったのである。

前田家は14代慶寧(よしやす)が明治2年(1869)に版籍奉還をし、華族として家禄・章典録を得、明治17年(1884)の華族令発布により、15代の利嗣(としつぐ)が侯爵となった。駒場に邸宅を構えたのはその養子となった16代の利為(としなり)なのである。

前田利為は明治33年(1900)に15歳で前田家第16代の当主となり、侯爵の爵位も継承した。明治38年(1905)日露戦争の最中に陸軍士官学校を卒業。明治41年(1908)陸軍大学に入学し、44年(1911)26歳のときに卒業。それから2年足らずの大正2年(1913)に欧州への私費留学をすることになった。当初はドイツに滞在したが、その間に第一次大戦が勃発。日本のドイツへの宣戦により大正4年(1915)にはイギリスに移り、日英同盟の関係のあるイギリス軍に従軍もした。ヨーロッパでの戦争が激しさを増す中、大正5年(1916)12月に帰国した。31歳のときである。

それから3年後となる大正9年(1920)2月から大正12年(1923)6月まで3年余りの期間再度ヨーロッパに滞在。その間の大正10年5月には、それから5年後に天皇に即位することになる、留学中の20歳になった皇太子をイギリスで出迎えている。利為は35歳であった。当時のヨーロッパは大戦の戦後処理の最中であり、それを現地でどのように見ていたのだろうか。

帰国してまもない大正12年9月には関東大震災が発生。その影響もあり、大正14年(1925)に本郷邸を移譲し、駒場に新たな邸宅を新築することを決め、翌年7月に駒場で地鎮祭を行った。更にその翌年で元号が改まった昭和2年(1927)、駐英大使館附き武官としてイギリスに赴任することになった。今ならロンドンまでノンストップで12時間半なのだが、この時は9月13日に出発してロンドン到着が10月29日。46日もかけた長旅であり、それだけ日本からは遠い世界の住民に3度なったことは記憶にとどめたい。(続く)

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円山町の料理店で剣術の演武(2018-5-5)

50年前まで、渋谷の花街として知られていた円山町の歴史を背景とし、ビルの外装の一部を料亭風にして設えたのが「つくね侍 さかのうえ」。昨年12月にオープンした店で、渋谷駅からだと道玄坂上交番前を進み、アパホテルの手前を右に入るのが道筋だが、神泉駅からだと踏切からの坂道を上がり、裏渋谷通りを渡って階段のうえを右に入って左に折れたところにある。

つくねを看板とする鶏肉料理店であるが、野菜メニューも充実しているのが魅力。食事であれば最後は麦飯セットで、ということになるが、最初はコースで頼むのがよいかもしれない。食べログを見ると人気店になる前に行った方がよいとの評価も。ホームページなど、外国人観光客を意識しているけれど、料理も日本酒も大人の日本人を十分満足させる内容なのである。

午後8時からの店内でのパフォーマンスは、日替わりで、男子剣士、女子剣士そして書道家の3バージョンとなる。さらに月に1度、土曜日の夜に円山町の芸者さんも登場する「さかのうえの大宴会」が催されるのも注目である。

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9日に日中韓サミット東京で開催(2018-5-4)

連休明けの5月9日に安倍総理の主催により、中国から李克強国務院総理、韓国からは文在寅(ムン・ジェイン)大統領が来日して日中韓サミットが開催されることを外務省が1日に発表している。http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_005966.html

国内メディアはこれに沈黙しているようで、NHKのホームページで閲覧できるニュース一覧にもない。
読売が2日に”日中韓「北の非核化」要求…共同宣言で明記へ”と、複数の関係者への取材による報道をしているが紙面での扱いは見ていない。この読売の記事について、韓国メディアは事実ではないと否定している。朝日のネットニュースには関連のものはない。総理大臣も外務大臣も出張中で記者会見がないためなのか。

7日には記者会見で何らかの発表があり、8日には李克強国務院総理が来日、そして9日がサミットとなる。文在寅大統領は9日の午前に東京に着いてその日の午後に帰国する。中国国務院総理の来日は7年ぶり、韓国大統領の訪日は6年半ぶりなので、それだけでも大きなニュースのように思えるのだが。

このニュースを知ったのは、2日の海外のネットメディアの北京の駐在記者の映像による報道。他のニュース中でもテロップで何度も流れていた。

韓国の大手メディア中央日報はこんなことも伝えている。
中国内部事情に詳しい消息筋は「中国の首相を今後も首脳として礼遇して現在の韓日中首脳会談体制を維持するかどうかについて3カ国が共に考えてみる必要がある。韓日からは首脳が出席するが、中国は首脳でなく首相を送るというのは妥当でない側面がある」と話した。

こうしたニュースよりスキャンダルを好むのが日本のメディアなのだろうか。

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目黒区のコミュニティ行政(2018-5-1)

広原盛明著『日本型コミュニティ政策』は2段組464ページに索引と参考文献のページがつく大著で、地域コミュニティ政策について東京・横浜を事例にしてその政策を検証している。その第14章「目黒区のコミュニティ行政40年の結末」では、41ページにわたって目黒区の住区住民会議の成立過程からさまざまな論点まで、詳細に記している。

そしてその結論ともいえるものは、「長年の行政努力によって達成された高水準の地域環境の存在は、何にも増して目黒区民に対して満足感と愛着心を与え、確かな定住意識を育んでいることに注目しなくてはならない」のであり、「社会学者や行政当局が「あるべきコミュニティ形成」を掲げて地域住民を主導することは、越権行為以外の何物でもない」ということである。

著者は京都大学出身で京都府立大学学長の経歴もある建築学出身の学者で関西在住だから、目黒区を内側から観察しているわけではない。この本は2011年に刊行されたものではあるが、その後のことで書き加えるべきものがあるとも思われない。しかしながら、町内会や住民会議がこのまま放置されれば、住民にとって「お荷物」となってやがて消滅する日が遠くない、とする結論は当たらないように思える。

住区住民会議の成立から50年近く経過し、その枠組みをベースとして目黒区を5分割した「地区」を単位とする「支え合いネットワーク」が、これから始動する。その核には区の機関である包括支援センターと社会福祉協議会が入り、介護保険課地域支援事業推進係が事務局となる。構成メンバーは住区・町会の役員などからなり、各地域社会をカバーするのである。

目黒区は「行政当局主導」というより「行政当局参加」による新たなコミュニティづくりを試行することになるのではないか。住民の立場からすると、何らかの個人の活動が、町会・住区・地区のネットワークにサポートされることが期待できるようになるとよい。

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