« 円山町の料理店で剣術の演武(2018-5-5) | トップページ | 駒場の重要文化財-2(2018-5-24) »

駒場の重要文化財(2018-5-19)

駒場公園は、加賀藩主であった前田家の本邸として昭和5年(1930)から終戦間際まで使われていたものを、占領軍による接収を経て、昭和42年(1967)に都立駒場公園として開園し、昭和50年(1975)から目黒区立の公園となって現在に至っているものである。平成25年(2013)には重要文化財に指定され、旧前田家本邸として保存管理の基本方針が定められている。

加賀藩主の前田家は、戦国武将である前田利家を始祖とし、徳川時代の大名として最大の石高を誇り、加賀百万石として知られていた。加賀藩の江戸藩邸は、現在東京大学の本郷キャンパスとなっている場所にあり、明治維新後もその一部が前田家の私邸として認められて、明治38年(1905)に和館(居館)、明治40年(1907)に西洋館(迎賓館)を竣工させた。

加賀藩邸跡地は明治10年(1878)から東京帝国大学として、医学部から順次キャンパスが整備されていたが、大正12年(1923)9月の関東大震災を契機として、隣接する水戸藩邸跡の敷地に明治22年(1889)以降立地していた第一高等学校とほぼ同時期に、駒場の帝大農学部と土地の交換をすることになった。

駒場の土地は徳川幕府の鷹狩り場として利用されていたもので、明治11年(1878)から駒場農学校が設立され、本郷キャンパス内の弥生キャンパスに移転した現在の東京大学農学部へと学校は引き継がれている。駒場農学校の敷地となった土地が、現在の駒場ⅠキャンパスとⅡキャンパスの部分と、当時の前田侯爵家のものになったのである。

前田家は14代慶寧(よしやす)が明治2年(1869)に版籍奉還をし、華族として家禄・章典録を得、明治17年(1884)の華族令発布により、15代の利嗣(としつぐ)が侯爵となった。駒場に邸宅を構えたのはその養子となった16代の利為(としなり)なのである。

前田利為は明治33年(1900)に15歳で前田家第16代の当主となり、侯爵の爵位も継承した。明治38年(1905)日露戦争の最中に陸軍士官学校を卒業。明治41年(1908)陸軍大学に入学し、44年(1911)26歳のときに卒業。それから2年足らずの大正2年(1913)に欧州への私費留学をすることになった。当初はドイツに滞在したが、その間に第一次大戦が勃発。日本のドイツへの宣戦により大正4年(1915)にはイギリスに移り、日英同盟の関係のあるイギリス軍に従軍もした。ヨーロッパでの戦争が激しさを増す中、大正5年(1916)12月に帰国した。31歳のときである。

それから3年後となる大正9年(1920)2月から大正12年(1923)6月まで3年余りの期間再度ヨーロッパに滞在。その間の大正10年5月には、それから5年後に天皇に即位することになる、留学中の20歳になった皇太子をイギリスで出迎えている。利為は35歳であった。当時のヨーロッパは大戦の戦後処理の最中であり、それを現地でどのように見ていたのだろうか。

帰国してまもない大正12年9月には関東大震災が発生。その影響もあり、大正14年(1925)に本郷邸を移譲し、駒場に新たな邸宅を新築することを決め、翌年7月に駒場で地鎮祭を行った。更にその翌年で元号が改まった昭和2年(1927)、駐英大使館附き武官としてイギリスに赴任することになった。今ならロンドンまでノンストップで12時間半なのだが、この時は9月13日に出発してロンドン到着が10月29日。46日もかけた長旅であり、それだけ日本からは遠い世界の住民に3度なったことは記憶にとどめたい。(続く)

|
|

« 円山町の料理店で剣術の演武(2018-5-5) | トップページ | 駒場の重要文化財-2(2018-5-24) »

駒場」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 円山町の料理店で剣術の演武(2018-5-5) | トップページ | 駒場の重要文化財-2(2018-5-24) »