敬老から嫌老社会へ(2015-8-30)
敬老の日を前にして『嫌老社会』が9月9日に発売される。著者は五木寛之なので話題になるだろう。中央公論9月号にある五木寛之と古市憲寿の対談”世代間対立が生み出す「嫌老社会」 ”でその一端がうかがえる。
また、『火花』の影になったようでもある今回の芥川賞受賞作品が『スクラップ・アンド・ビルド』。30歳の著者が老人を描いているところにはやや苦しいところがあるものの社会の大きな課題を描き出している。次の文章は若い世代の主張と理解してよいのだろう。
大声を発する元気のある老婆はまだしも、このフロアには、祖父と同じように全身チューブだらけの延命措置を受けている、自然の摂理にまかせていればとっくに死んでいるであろう老人たちの姿しかない。苦しみに耐え抜いた先にも死しか待っていない人たちの切なる願いを健康な者たちは理解しようとせず、苦しくてもそれでも生き続けるほうがいいなどと、人生の先輩に対し紋切り型のセリフをいうしか能がない。未来のない老人にそんなことをいうのはそれこそ思考停止だろうと、健斗は少し前までの自分を軽蔑する。凝り固まったヒューマニズムの、多数派の意見から外れたくないとする保身の豚が、深く考えもせずそんなことを言うのだ。四六時中白い壁と天井を見るしかない人の気持ちが想像できないのか。苦しんでいる老人に対し”もっと生きて苦しめ”とうながすような体制派の言葉とは今まで以上に徹底的に闘おうと、酸素吸入の音を聞きながら健斗は固く誓った。
「凝り固まったヒューマニズムの、多数派の意見から外れたくないとする保身の豚」による「体制派の言葉」が、例えば、8月9日にも紹介した麻生副総理の以下の発言を議事録から削除させたのだろうか。
「チューブの人間だって、私は遺書を書いて「そういうことはしてもらう必要はない、さっさと死ぬんだから」と渡してあるが、そういうことができないと、あれ死にませんもんね。なかなか。死にたい時に、死なせてもらわないと困っちゃうんですね。ああいうのは。いいかげんに死にてえなと思っても、とにかく生きられますから。」
ピンピンコロリがいい、といっても現実には難しいらしい。人間社会のスクラップ・アンド・ビルドは地域社会でも課題となる。地域包括ケアもそんな視点を持たねばなるまい。
嫌老をあおるような敬老にならないような配慮が必要になっている。