神津島の歴史物語(15-01-11)
神津島の人口は1934人で、駒場1丁目の人口2324人より少ない。面積は18.48平方キロで、目黒区や渋谷区より広く、港区よりやや狭い。そんな離島であっても、いや離島である故か、そこにはいくつもの歴史物語がある。
本土にある石器の調査により、石器として使われた黒曜石の採掘で、神津島が伊豆半島との間で有史前から太平洋上の航海があったことが確認されている。関西から関東への航海の途中にある伊豆の島々は古くから知られていたに違いない。
島の鎮守である物忌奈命神社は西暦で840年の事柄を記録する史書に記されている。838年にあった島の噴火は日本の歴史に残るものであった。神門には寺院の山門でよく見る仁王像ではなく、刀を持った人物像が置かれている。
敷地内にある薬王殿の薬師如来像は年に1度の御開帳という幸運に偶然巡り合い、拝観することができた。
伊豆諸島創生神話に基づいて、島々の神様をモニュメントにしたものが島の中心部の海岸にある。神々が各島への水の配分について会議をしたというのである。
秀吉の朝鮮出兵の折、キリシタン大名の小西行長が朝鮮から連れてきたとバチカンの記録にある「おたあジュリア」は、徳川家康の大奥に入り、キリスト教の棄教をしなかったことから神津島に島流しになり神津島で生涯を終えたとされている。ヨーロッパにある史料から本土に戻ったとの説もあるものの、墓も残されている。
毎年5月の第3日曜日にはジュリア祭が行われ、昨年はその第45回。東京、長崎、大分教区からカトリックの神父が参加している。流人墓地にジュリアの墓といわれるものがあり、ありま展望台には巨大な十字架が建てられている。ジュリア祭には韓国から来る人もあるようで、途中の展望台にはハングルの表示もあった。
平成12年7月には震度6弱の地震と台風の大雨による被害があり、翌平成13年天皇皇后両陛下行幸での御製の碑も。
さまざまな歴史物語をもつ神津島は文字通り神の島といってよいのかも知れない。
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