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戦争の記憶(13-12-6)

戦争を期待するかのような新聞の見出しが駅頭で目立つ。戦争をゲームのように考えている読者が多いからだろう。日本は幸い1945年から今日まで、戦争による直接の犠牲者を出していない。戦地に行った経験のある人はもとより、空襲を受けた人、学童疎開で辛い思いをした人たちも後期高齢者となっている。
とはいえ、戦争の記憶を風化させてはならないことはいうまでもない。最近日中戦争について中国側から指摘されることが多いようであるが、アメリカとの関係で太平洋を舞台に多くの戦いがあったことはいうまでもない。その戦場を経験されている生存者の一人、駒場在住の角信郎さんから「渋谷WESTおしゃべりサロン」でお話をうかがった。角さんの海軍でのご経験を紹介したい。

1941年11月15日、舞鶴の海軍機関学校を卒業と同時に見習い士官として当時最新鋭の主力空母であった翔鶴に乗艦し、11月26日択捉島単冠湾からハワイへと向かった。12月8日の真珠湾攻撃はよく知られている。翌年4月5日から9日まではイギリス軍とのセイロン沖海戦があり、5月6日から8日はニューギニアの南、オーストラリアの北にあたる珊瑚海で海戦、翔鶴は被弾して戦列を離れ、横須賀に帰った。翌6月4日から6日がミッドウエー海戦では空母4隻が撃沈されたが、翔鶴は結果的に温存されることになった。
その年の8月にソロモン海に出撃し、第2次ソロモン海戦で艦載機29機を失うなどした。10月26日から27日は南太平洋海戦。翔鶴は戦死者144名を出して大破し、帰還して横須賀で修理を行なうことになる。
角さんは翔鶴に乗艦してこれらの海戦を経験されたわけだが、機関室が持ち場であったため、戦闘の激しさを感じることはなかったという。
翔鶴を離れた角さんは、1943年6月から翌年3月までの期間、追浜で飛行機の勉強をしていた。1944年3月には一式陸攻航空隊勤務となって北千島のカムチャッカ半島に近いパラムシル島に物資を送る仕事を命ぜられ、その後フィリピンのクラーク基地に行くことになる。10月のレイテ沖海戦とその後の退勢の中、11月22日クラーク基地を離れ日本本土に向かった。本土では木更津で整備分隊長として後方支援の任務に就き、木更津から硫黄島に飛び立った多くの飛行機を見送ることになった。
その間、翔鶴は1944年6月、マリアナ沖海戦で米潜水艦の雷撃により撃沈していた。
1945年2月からは横須賀で国産初のジェット機『橘花』開発に従事。8月15日は厚木基地で、18日に徹底抗戦を誓う七生報国の旗が林立する厚木基地を発って三沢基地に向かい、そこで復員することになった。

日中戦争は陸軍の戦いであり、太平洋戦争は主として海軍の戦いであったともいえよう。その海軍と陸軍は別組織で教育から海軍兵学校と陸軍士官学校ということで違っていただけに、協力関係という意味での問題があったようだ。自衛隊は防衛大だからよいのかも知れないが、陸自と海自の音楽隊を比較するとその伝統的文化の違いがあるようにも思う。

特定秘密保護法案がいろいろ議論されている中、防衛秘密はともかくとして、軍事についてはもっと知っておいてよい。戦史も日本海海戦や真珠湾攻撃のような景気のよいものよりも、ミッドウエー海戦、南太平洋海戦、レイテ沖海戦などを学ぶようにしたい。戦史の中に政治のあり方を考える材料が少なくないのではないか。
日本は負けたことがなかったから、戦争の終わらせ方を知らなかったようだ。悲惨な戦争を2度と起こしてはならない、ということ戦後よくいわれてきた。戦争を知らない世代となった今、そのためにどうするのかということについての議論が乏しいようなのが気になるところである。
131206_3

http://www.aramant.com/chuukou/tomoni.html

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