宴のあと(11-8-3)
「どうせ新聞社の費用だろうが、席は柳橋の稲瀬で、川に面したひろびろした座敷にいつもの顔ぶれが集まった。八十翁は床柱を背にして座った。野口と、新聞社の重役と、経済評論家がこれを囲んで座った」とあるのは三島由紀夫の小説『宴のあと』の一節。ここで野口というのは政治家で、料亭の費用を取材の場として新聞社がもつということがあたりまえのように行なわれていたことをうかがわせる。50年以上も昔の話なのだが、そのころは円山町の料亭も繁盛していたようだ。
当時の料亭の多くがラブホテルなどになって姿を消した今も、道玄坂地蔵の側にある玄関横に「三長」の看板を残す建物がその全貌を見せている。横にあった料亭跡のような古い木造の建物が壊されて見えるようになったのだ。道玄坂地蔵の後ろがL字型の建物で、通りに面していたのがごく一部であることがわかる。料亭は客同士が顔を合わせることのないように設計されていると聞くが、どのようなものなのだろう。密室政治という言葉にふさわしい部屋だったことは想像できる。
円山町の料亭は首相経験者もよく利用したといわれるが、客は「すーさん」とか「たーさん」とかで本名では呼ばれないので、誰が利用したのかは従業員も知らなかったとか。今ではそんな記憶も伝わりにくい。料亭の支払いに現金払いはなく、それも半年に1回であったそうなので、よほど信用のある客でないと利用できなかったに違いない。だから閉じた世界であったともいえるだろうし、その中だけでの恋愛の場となることもあったろう。
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コメント
chimaです。
20数年前でしょうか、料亭がまだ数件残っていた頃、夕刻になると円山町の細い路地に黒塗りの車が列を作って駐車していました。
また、お地蔵さんの近くに懐紙や塵紙その他日用品を商う小さな商店もあったような。。。
投稿: chima | 2011年8月 4日 (木) 08時40分