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航空研究所から先端研まで(11-3-4)

駒場Ⅱキャンパスの正門から入り、時計台に向かって左側に銅像「航空」がある。1935年に作られた彫刻家吉田三郎の作品である。そこには斯波忠三郎の肖像レリーフと紹介文が書かれている。斯波忠三郎は1918年に発足した東京帝国大学航空研究所で1923年から32年までの期間所長を務めた人物。退職後まもなく1934年(昭和9年)10月に他界した。63歳であった。

1923年9月の関東大震災は、本郷の東京帝国大学のキャンパスをほぼ焼き尽くし、越中島に開設されていた航空研究所も同様に被災していた。そこで、本郷のキャンパスは代々木の陸軍用地に移転する方向に一旦は決まったものの、それが困難ということで本郷の敷地を拡大して復興をはかることになったらしい。
本郷キャンパスの中心部はほぼすべて加賀藩の上屋敷であったのだが、明治4年に明治政府のものとなって、前田家は懐徳館(現在の建物は1951年に再建されたもの)のある付近を自邸として保持していた。

その前田家の自邸をも東京帝国大学の敷地に統合し、代替地として駒場を提供することになった。本郷キャンパスの敷地拡大の話がはじまった1923年には前田家の当主前田利為は38歳。その時の航空研究所所長斯波忠三郎は前田家の家老家当主の立場で51歳。男爵・貴族院議員でもあったのだ。

そうした背景から、斯波忠三郎が東京帝国大学、文部省、前田家の間に立ち、航空研究所駒場移転に尽力したことが想像できる。
移転は1927年から30年にかけて行なわれ、30年1月に高松宮、31年5月に昭和天皇、32年4月に伏見宮と次々に天皇・皇族方の来臨も得るほどの立派な研究所であった。

1945年の敗戦により航空分野の研究が禁止され、1946年航空研は理工学研究所となった。1952年に航空分野の研究が再開され、1958年に航空研究所、1964年には東大の生産技術研究所の一部と航空研究所が合併して宇宙航空研究所となって空への夢がつながる。1981年に宇宙航空研究所は廃止されて、キャンパスは東京大学の工学部付属施設と、大学共同利用機関の宇宙科学研究所になった。そして先端科学技術センター(先端研)が1987年5月に設置され、1989年に宇宙科学研究所は相模原に移転した。昭和の終わりは駒場での航空宇宙分野研究の終わりでもあったようだ。

歴史が王朝ごとに記録されるように、組織の記録もそれぞれの組織ごとに残される。その土地の歴史、その敷地の歴史は部外者でしか書けないということで、これからも駒場キャンパスの歴史を見てみたい。

銅像「航空」と斯波忠三郎のレリーフ像
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駒場Ⅱキャンパス正門と時計台のある13号館
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コメント

駒場Ⅱキャンパスには、六本木から移転してきた生産技術研究所もあります。
そこの藤森照信教授(もう退職されましたが)の講演でおもしろいものがありますので貼り付けておきます。

http://www.jstage.jst.go.jp/article/seisankenkyu/59/5/59_399/_article/-char/ja/

投稿: 駒場オリオンズのコーチです | 2011年3月 4日 (金) 22時08分

情報ありがとうございます。
目下電子書籍で駒場キャンパス非公式ガイドを作成中です。参考文献として活用させていただきます。

投稿: 管理人 | 2011年3月 5日 (土) 11時07分

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