百軒店の歴史と今(4月6日)
渋谷百軒店は計画的に作られたショッピングセンターを起源にもつ。1923年9月1日の関東大震災で多くの店が被災したため、下町から有力な店を誘致しようと、西武グループの全身である箱根土地株式会社が開発したものだ。店をまとめて誘致するという試みは日本で最初のことだったのかもしれない。道玄坂からでもランブリングストリートからでも、坂を上がると平坦に整地された土地に直線の道路があるのが渋谷では珍しい。1928年の地図では聚楽座、喜楽館、渋谷キネマの名前が、現在ライオンズマンションが建っている場所に見られる。千代田稲荷は百軒店の中央の道の突き当たりにあり、現在社殿のあるところは、台湾館と表示されている。
当初の街並みから1945年5月の山手大空襲で焼けるまでの17年が第1期。渋谷で一番にぎやかな場所だったのだろう。戦後も1946年から復興がはじまり、戦災で焼け残った渋谷キネマはテアトル渋谷となり、テアトルハイツ、テアトルSSといった映画館と数多くの飲食店ができて、渋谷一の歓楽街となっていった。ここにボーリング場があった時期もある。60年代後半から70年代初めにかけてのことだろう。この1946年から75年までの30年を第2期と区切ってみる。戦災後、千代田稲荷神社は現在の場所に移っていた。この時期は百軒店の黄金時代ともいえそうである。
しかし、1978年9月にサンモール道玄坂、1979年4月にライオンズマンションが竣工したことで街の風景は大きく変わった。映画館もボーリング場もなくなり、それでも1990年代の初めまであったジャズ喫茶やバーがこの街を特徴づけた。76年から91年までの15年は渋谷の繁華街の中心が公園通りに移り、百軒店や道玄坂は、若者の街として渋谷が最も注目されていたこの時期には比較的目立たない存在になっていった。それでも日本は経済的に余裕のある時代だったので、百軒店も賑わっていたらしい。周囲をラブホテルが囲むようになったのもこの時期なのだろう。
そしてバブル崩壊から現在までは失われた20年といってもよさそうだ。残念ながら性風俗の街というイメージが一般化してしまい、多くの店から客足が遠のくようになった。周辺には多くの客を吸収する新しい飲食店が並んでいる。
しかし、その状態に甘んじてはいるわけではない。渋谷の真ん中にあるという地の利と過去の文化の担い手としての歴史を生かして、魅力ある街づくりをしていこうという意欲がある。百軒店まつりなどによる努力は積み重ねているのだが、復活への道はこれから。この3月にオープンしたネットカフェが新しい風を吹き込みはじめた。いよいよ何かがおこりそうだ。
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コメント
■財政健全化目標に債務残高対GDP比縮減など、達成時期を明示へ――本気でやれば、また失われた今度は失われた20年の再来か?
こんにちは。またまた、民主党は、財政健全化目標として、プライマリーバランスについて言い出しています。菅さんは、昨年の暮れあたりに「デフレ宣言」をしたのではありませんか?デフレを克服するには、プライマリーバランスを気していてはできませんが?要するに、経済対策には順番があるということです。これを社会人の健康にたとえていえば、デフレは癌でありそのまま放置しておけば、死に至る病でもあります。一方、プライマリーバランスは、一般社会人にとっては会社の仕事のようなものです。会社の仕事がうまくいかなければ、降格になったり、減俸されたり、挙句の果てには解雇されたりで大変ことになってしまいます。その果てに病気になってしまうということもあるかもしれません。しかし、癌の人が会社の仕事をあれこれ気に病んでいても仕方ありません。まずは癌の治療を最優先しなければなりません。詳細は是非私のブログを御覧になってください。
投稿: yutakarlson | 2010年4月 7日 (水) 15時24分