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2010年4月

立ち呑みというスタイル(4月30日)

立ち呑みは酒屋の外で日本酒をコップであおるのが原点と記憶する。安く呑みたいというニーズに応えるものだが、何故かそんな店のある街は限られていた。立ち呑みというスタイルにそれほど多くの支持が得られなかったためだろう。
神泉町交差点横にオシャレな立ち飲み酒場としてBuchiがオープンしたのは2004年。現金と引き換えで注文したものを受け取るというスタイルが新鮮だった。女性が一人でも入れる店というのがコンセプトで、今も相変わらず客が店外にあふれている。1階の細長い店内には20人余りが入るのだが、その混雑感が魅力となる。周りの会話がストレートに聞こえてくるわけだ。立ち飲みといっても酒も料理も種類が多く、しかもテリーヌとかカルパッチョなどレストランの前菜のメニューも数多く用意している。だから立喰酒場と称している。
今月は中目黒にもかなり大きなオシャレな立ち呑み屋が開店したりして、今や立ち呑みはメジャーなスタイルになってきている。
4月26日にはBuchiをさらに小さくしたような立ち呑み処EVANSが神泉仲通に誕生した。「ビル・エヴァンスのロマンチックなジャズピアノに深く包まれながら、ハイボール片手に鶏唐揚げを味わう・・・?そんなオトナなお店、つくっちゃいました!」とチラシに書いている。
Buchiでは若い女性スタッフが注文を受け、あまり見えない厨房で3~4名の調理スタッフが料理を作るのに対し、EVANSは対面ですべて準備する家庭的な雰囲気。また、Buchiが年中無休で夕方5時から3時までの営業なのに、EVANSの方は午後5時半から11時半までという、このあたりでは珍しい早めの閉店時間だ。インテリアには共通するものを感じさせるが、10人がやっとかというスペースの違いからか、印象はかなり違う。料理も家庭的で「喫茶店のナポリタン」というものもある。
スタンド・バーは最近では余り聞かない営業形態といえそうだし、実質カラオケバーといってよさそうな、スナックという営業形態に親しんだ世代は盛り場から去っていく。都会の喧騒を楽しむ場所として立ち飲みというスタイルがあるのだろう。オフィス街と静かな住宅地がつながっている神泉には店の中と外が一帯になっているような立ち飲みの店は似合う。

EVANSの入り口
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EVANSの周辺
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Buchi
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USTREAMスタジオ渋谷

Ustream を使って誰でもインターネットでその場で撮影したライブ動画配信ができるよう、ソフトバンクグループはUSTREAMスタジオを開設する。第一号はソフトバンク本社内のUSTREAMスタジオ汐留で3月28にオープンした。
第2弾となるのが5月10日に文化村通りのソフトバンク渋谷内に開設されるUSTREAMスタジオ渋谷。年中無休で10時から24時の時間帯を1日1組が無料で利用できることになる。現在申し込み受付中なのだが、どんな企画が出てくるかが楽しみだ。
USTREAMでの動画配信は、事業仕分けの完全生中継など、テレビ放送の機能を代替する可能性をもっている。NHK放送センターからは全国に配信されるのに対し、USTREAMスタジオ渋谷からは全世界にライブ動画が配信されることにもなる。視聴者数は数千人レベルではあるとしても、新しいメディアの誕生を注目したい。
http://www.tv-bank.com/jp/index.html


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三田用水の石橋供養塔(4月28日)

一昨年の8月に橋供養碑が設置されたことを紹介したが、今月になってようやく目黒区教育委員会による碑が完成した。それによると、三田用水を渡る滝坂道に架けられた橋だったようだ。三田用水は旧山手通りと山手通りの間の一番高いところを通っていたのだが、現在ではそのおもかげすらない。三田用水の水路は渋谷区と目黒区の境界線上でもある。滝坂道は道玄坂坂上交番で大山街道を別れ、神泉仲通から三田用水を越えてこの石橋供養塔の前を通り、現在は山手通りが走るところを降りて空川を渡り、淡島通り通りとなった道筋である。徳川将軍が鷹狩の際に通行した道だろうし、その準備のためにこの周辺で作業をする必要のあった農民も多かったろう。世田谷方面と江戸府内を結ぶ幹線でもあったのだ。
この供養塔は1972年に発見されたものが放置されていたのを、一昨年にマンションを建設した折に現在の場所に安置し、目黒区に連絡して碑を設置してもらうことになったという経緯をもつ。
気が付いて読む人は限られるだろうから、積極的に紹介する努力は必要だ。人間が住んでいたところには必ずその場所の歴史があり、それを知らせることは自治体の重要な仕事として拡充という事業仕分けができるだろう。

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目黒観光まちづくり協会(4月27日)

目黒観光まちづくり協会が昨年10月に設立されている。観光庁の設立に合わせたタイミングなのだが、その設立趣旨は次のようなことだ。

景気の低迷や、少子高齢化が進む我が国において、 観光は経済効果や、雇用創出効果ばかりでなく、 地域の人々の街に対する愛着と誇りを高め、 魅力あふれる街の形成などの効果が期待される。
以前のような、温泉や観光地を回る物見遊山的な、非日常的な金銭消費型から、 テーマ性のある生活体験的な、時間消費型へ、 さらに、街なかでショッピングをしたり、ブラブラ歩き回ったりの都市型観光への流れがある。
区内外からの来訪者による、 我がまち・地域資源の再発見や、交流を通じた地域文化の振興、住んでいる街のイメージアップ、 さらには、コミュニティ活動の活性化を通じ、住民が自らの知識や経験を生かせる場や機会が増えることで、 生きがい作りにもつながる。
http://www.meguro-kanko.com/src/purport/
「非日常的な金銭消費型」の観光はビジネスとして成り立つが、そうでないものは小さな努力の積み重ねがなくては不可能に近い。江戸・東京の歴史を踏まえた観光への動きは、特に下町で進んでいる。七福神めぐりのコース設定などその一例だろう。目黒区でもこれまで、歴史を伝えるための工夫がさまざまな形でされているものの、それをより多くの人に知ってもらうためにはストーリーづくりが必要だ。目黒といえばサンマとなるのではいかにも古い。
観光という言葉には、非日常的な金銭消費型を連想させるものがあるとしても、その内実は、仕事を離れた環境での豊かな時間の享受ということにならないか。そんな環境を身近なところに作ることができれば生活は豊かになる。
日本人は万葉集の時代から観光を楽しんできた。それだけの文化的蓄積があるわけで、まさに国家戦略にもなる。まず、身近な観光地づくりを心がけるようにすることが重要で、渋谷WESTというサイトが目指すものでもある。
めぐろ観光まちづくり協会では、年会費一口2千円の個人サポーターを募集している。

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ペットの写真スタジオ(4月26日)

ペットを飼う人が増え、ペット食品売り場が大きくなったり、飲食店にペット同伴で来る人を見かけたりと、ペットといえども人間並みの扱いが普通になっている。ペットを愛する人にとっては人間並みのサービスを期待する人も少なくない。そこでいろいろなサービスが出てくるのだが、写真スタジオもその一つ。普通の写真スタジオでもペットの撮影をするところがあるようだが、専門のスタジオがあればその方が安心できるはず。
駒場の松見坂下バス停から階段を降りたところで最近開業したパルピットスタジオでは、コマーシャルや雑誌分野での撮影経験を活かしたオーナーカメラマンが撮影する。ペット専門のスタジオならではの、ストーリー性を加味した写真があればペット自慢に話がはずむことにもなるだろう。
パルピットスタジオ:http://www.pulpitstudio.com/index.html

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プチプラの街(4月25日)

ファッション雑誌『non・no』最新号の特集は「プチプラMIX!」。
「ファッションブログ」によるとプチプラとは:
プチ・プライスの略で少価格=少額や安値などの意味である。
安値ではあるが、ファッション性があるもの。
安物ではない言葉として使われる。
特に、H&Mなどヨーロッパのトレンドを取り入れた
リーズナブルな価格のものをいう。
とか。
どうも和製の英仏混合語らしい。プチプラファッション、プチプラコスメ、プチプラ通販、プチプラワンピース、プチプラシューズ、プチプラブランド、といった使用例が見られる。
『non・no』には原宿プチプラMAPという原宿のプチプラ商品を扱う店のマップが掲載されているから、渋谷プチプラMAPもあるはずだ。今のところ10代の女性が主な対象のようだけれど、プチプラフード、プチプラグルメ、プチプラメニューといった具合に拡大ができるだろう。プチプラグルメともいえそうな店は多い。立喰寿司もそんな感じだ。収入減の世の中に、プチプラライフというコンセプトをぶち上げれば元気になりそうでもある。
また、Economist誌の4月15日号の特集は「Frugal Innovationの魅力」。インドや中国で、機能本位の低価格商品の開発が進んでいることを紹介している。Frugal Innovation という言葉は「質素なイノベーション」と訳すより、プチプラ・イノベーションとした方がぴったりしそうで、世界がプチプラの時代に向かっていることを示している。
そんな世界のトレンドの中で、渋谷の街そのものをプチプラの街として世界に発信するとよい。東京の「プチプラタウン・シブヤ」なら誰もが納得するだろう。10代女性の感性が新しい時代のトレンドの牽引車といわれていた。若者の街渋谷のイメージを発展させて、すべての世代のプチプラの街にするのだ。

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道路面積について考えた(4月24日)

東京の道路面積比率が世界の主要都市と比べて少ないのかどうか検索してみると、比較が難しいことと、いわれているほどの差はないのではないのかとの見方もあることが分かった。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/douro.html
世界と較べてどうかということは別にしても、自動車交通が一般化する前の50年前と比べると、道路面積が何倍にもなっているということは明らかだ。50年前には山手通りの菅刈陸橋から渋目陸橋の間は道路ではなかったし、246は現在の半分の幅で、無論その上の高速はなかった。淡島通りの道幅も狭かったし、空川や三田用水が道路になったのも50年ほど前のことなのか。また、50年前だとバス通りでない道はまず舗装されていなかった。土が露出しているか、砂利が敷いてあったりした。当然雨水を吸収し、下水ではなく地下水になった。山登りでさえ途中まで舗装道路を歩く40歳未満の人たちには想像もつかないことではなかろうか。
現在さらに道路面積を拡大する計画があり、用地買収も進められている。しかし、現在の渋滞を解消する必要性を実感していない人たちにはその意義を説明することは難しかろう。道路の利用そのものが将来増えるのかどうか、運転者の年齢別人口を考えると、高齢化により運転をする人が減り、その分自動車の通行が減ることは確実とはいえないのか。また若い人たちも運転する人が以前より減っていると聞くし、雇用が流動化が進みそうな中で、車で遊びに行く人が増えるとは考えにくい。
既存の道路の車道を減らして自転車通行路にする事例も見られる。山手通りも自転車の現在の車道部分の一部を自転車通行路にする計画だ。これから新規の道路建設の必要性があるとすれば、海外からの観光客にとって魅力的なツアーを約束するためということになるのかもしれない。
いずれにしても、コンクリートの道路より「光の道」に関心が集まることになるのだろう。

工事が止まっている明治通りのバイパス:緑がきれい!
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車道の一部を自転車用に切り替えた武蔵野市から三鷹市への道路
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平成の渋谷(4月23日)

現在の大学生のほとんどは平成生まれだ。昭和時代は伝説の時代でしかない。しかし昭和と平成と何が違うのかが話題になることはあまりないようだ。渋谷も昭和以前の歴史を切り離して考えると、平成は成熟した街になって見える。平成になって日本は経済成長を経験していないということもあるのだろう。消費する金額も増えないどころか減っているので新たな、消費を吸収するものはできないという理屈になる。
Bunkamuraが平成元年、マークシティが平成12年に開業した。109が今のようになったのも平成にはいってからのようだ。しかし、飲食店は大型の居酒屋チェーンや牛丼店、物販店では全国チェーンのコンビニがいたるところにあって、それが平成の渋谷の景色になっている。それでは没個性になってしまうので、どうしても昭和の渋谷を写真展などでアピールしがちになる。しかし現在の街の基本がチェーン店だということは否定しがたい。
ローソン、セブンイレブン、ファミリーマート、ampmで弁当やお菓子を買い、チェーン店のカフェや居酒屋で交流する。それ以外の昭和の世界は目に入らない。そんな人たちがこれからの渋谷に来る人の主流になってくる。消費金額が増えることは期待できない。「質素イノベーション」が平成の渋谷を特徴づけるようになるのではないか。

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昭和の日(4月22日)

4月29日は昭和時代には天皇誕生日であった。それが平成になってみどりの日となり、2007年から昭和の日と呼ばれるようになった。だが、その日にどのような意味があるとうことよりも、ゴールデンウィークの初日ということで、ニュースでの道路の混雑や飛行場の映像が印象づけられていないだろうか。
祝日法では「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日と定義している。昭和時代は、出征、被爆、占領、復興、高度成長という、まさに激動の時代であったことは、平成20年間の歴史と比較すると明らかである。昭和時代を考えることの価値は大きいにも関わらず、歴史認識の問題もあってか、残念ながら学校教育の場でその歴史は十分に伝えられていないようだ。
昭和という時代は政治や経済が激動しただけではない。文明そのものが根底から変化したといってよい。その変化を嘆くものではないとしても、何が変わったのかということは、伝えられなくてはならないだろう。昭和という時代は日本人が過去2千年以上の生活様式をほぼ完全に消し去った時代でもあるのだから。
過去2千年の生活様式は農業を基本とする生活だった。いうまでもなく、その農業は現在のそれとは違う。農作業の道具が違うし、農家は肥料となる人糞を買っていた。馬や牛と共同生活をし、その糞が道に散らかっていた。農業の変化や、移動手段は徒歩が基本というのがそうではなくなったのも昭和だろうし、電気、ガス、水道もまだ一部にしかなかった。木や炭が燃料であった。冷蔵庫も洗濯機もなかった。病院も完備せず、お産も自宅でするのが普通だったのが昭和の前半だ。舗装された道路も木造でない建物も例外的だった。ノミ、蚊、ハエなどの昆虫は、平成生まれの若者には理解もできない存在かもしれない。
昭和30年代で、農村を基本とする社会が消滅したが、その時代を記憶する人たちは、社会の第一線で活躍している人たちを含め、現在存命なのだ。しかし、その記憶を若い世代と共有できているのだろうか。各地にある歴史資料館はその記憶を記録する役割も担っているようではあるが。昭和の日には交通機関を使わずに中目黒にあるめぐろ歴史資料館を訪れたりして、常識となっている現在の生活様式をリセットして、2千年の歴史とつながる昭和の意味を考えることもよいだろう。平成から見た江戸時代は時代劇の世界でしかないが、昭和はまちがいなく江戸の生活の延長の上にあったのだ。

めぐろ歴史資料館展示
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桶は人糞を運んだもの
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駒場野公園の春(4月21日)

急に暖かくなった一日。駒場野公園は緑に覆われるようになっていて雑草が気になるほどだ。
花壇にはさまざまな花が誇るように咲いていて花の季節の到来を実感させる。
ソメイヨシノが終わると緑が帰って来る。緑の季節は雑草も伸びてくるのだが、背の高くなる雑草に覆われないようにと、花壇とは別に地面の一部にも草花が植えられている。こちらは野に咲く花ともいえようか、何となくさびしげではあるが微笑ましい。
駒場野公園は駒場公園とは違い、駒場野公園も新しい拡張部分とケルネル田んぼを含む森の公園とは離れている。それぞれの特徴に合わせてさまざまな利用方法があるが、その中で、公園の草むしりという、世代を超えた公園の楽しみ方があってよい。海岸のゴミ拾いがボランティアの楽しみとして定着しているように。でもそうすると、仕事を失う人がいるからいけない、との考えもあるようなのだが、結局は税金をどう使うのかという問題になってくる。

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野に咲くチューリップ
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ヤマザキ学園(4月20日)

ヤマザキ学園は松涛2丁目に本校舎と松涛校舎、神泉町に神泉校舎と3箇所に校舎があり、今月開校したヤマザキ学園大学は南大沢にキャンパスをもっている。動物看護と動物美容を教えるユニークな学校だ。専門学校は2年コースと3年コースがあり、大学は4年のうち1学年度を松涛校舎で履修する。大学の定員は1学年180名。専門学校の3年制が120名、2年制が動物看護学科40名、動物美容学科40名というのが1学年の定員だ。だから1学年の合計が380名、南大沢に行く2年生以上の大学生を除くと全部で700名の学生が松涛2丁目交差点から山手通りに面した校舎を行き来し、渋神泉駅や渋谷駅との間を歩いていることになる。校庭のないので学校のようには見えないが、獣医大学でない動物の学校としては日本最大の規模なのだろう。
同校のホームページによると近々NHK総合テレビの「いっと6けん」で紹介されるとか。動物看護と美容の学校の街にふさわしい象徴的なものができるとおもしろい。ハチ公をうまく使えないものだろうか。

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千代田稲荷と中川稲荷(4月19日)

渋谷百軒店の奥にある千代田稲荷神社を知る人はまれだ。ラブホテルや性風俗の案内所の並ぶ場所柄だけに通る人は少ないが、この神社には江戸城の守護神という由緒正しい歴史がある。
浅草寺628年、神田明神730年の創建と較べると時代は下るが、1457年に大田道灌が江戸築城の折に守護神として伏見稲荷を勧請した。その133年後の1590年に徳川家康が入城してから現在の皇居の中心にあたる紅葉山に遷座し、1602年に江戸城拡張のため宮益坂に移され、その際に江戸城の別名千代田城から千代田稲荷と名づけられた。江戸名所図絵にもその名がある。
1923年の関東大震災の後、西武グループの創始者堤康次郎が中川伯爵邸の土地を買収して渋谷百軒店というショッピングセンターにした。その時に千代田稲荷を宮益坂から移動させたのだが、百軒店の街づくりの一環だったのではなかろうか。当初の千代田稲荷神社はライブハウスの並ぶ側の百軒店入り口近くにあった。1945年の戦災により社殿を失ったが、梨本宮家邸内社殿を譲り受け、改装して新社殿とし、鳥居、社務所などを建設し「従来より当地の守神と仰ぐ」中川稲荷を末社として、1952年に現在の場所に鎮座した。中川稲荷の名称はその規模からも中川伯爵邸の邸内社であったことからと想像できる。
この千代田稲荷神社からBunkamuraまで直線だと100メートルも離れていないことを知る人は更に少ない。

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新しい公共(4月18日)

「新しい公共」という言葉が政府から発信されている。公の担い手の多くが役所であり税金であったものを、より民間の力を活用していこうとするものと理解している。わかりやすい言葉なのだが、具体的な新基軸が出てくるのかどうかはこれからの課題だ。
これについて、松井官房副長官はツイッターでこんな発言をしている。
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「新しい公共」で個人的にやりたいことは、官による国土の均衡ある発展(しかもコンクリート中心)から、社会の中で人間が孤立せず、居場所と出番を見出せる、そんな社会に重点を移すことです。人間を取り巻く環境にはもちろん国土もあります。だから国土の均衡ある発展を否定するわけではありません。でもそれ以上に、教育環境、文化環境、医療や社会保障環境の不均衡の是正が今の急務だと思います。しかし財政の逼迫もあり(財政的な理由ばかりではなく社会のあり方としても)中央の官でそれらの是正はしょいきれないし、官だけが背負うべきものでもない。地域の民の力でそうした不均衡をどのように是正していくかが課題だと思います。
******
それを具体的にどう実現していくのかということで円卓会議が始まっている。これについては、これまでも社会起業家などの名称で少なからぬ数のモデル事業の報告がされているので、その実績も踏まえてほしい。また、地域社会では、消防団や自主防災組織がそれこそ江戸時代から活動しているし、「社会の中で人間が孤立せず、居場所と出番を見出せる」ことが難しくなったのは最近のことといってもよいのではないか。50年前までは、地域社会に縛られて不自由ながらも居場所と出番が確保されていたのが、そこから人々が脱出するようになって、当然ながら地域社会に居場所を失ったともいえるのだ。所属する組織を別にすれば、テレビに映る世界が居場所になってしまった。その結果、たとえば、地域社会で消防団と自主防災組織の違いを知っているのは、当事者と役所関係者だけということにもなっている。町会、商店会などの果たしている役割も再評価されなくてはならない。
「新しい公共」の具体的イメージとなりそうなものとしては、渋谷百軒店で活動をはじめた特定非営利法人BONDプロジェクトがあり、5月9日には百軒店Cafe MELTで対談イベントが開催される。
http://www.bondproject.jp/
いずれにしても、「新しい公共」を実現するには、テレビの中の世界に安息の居場所を見出している人たちを現実の社会に引き戻すことから始めなくてはならないのではない、と考えるのは極論だろうか。

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246という大河(4月17日)

首都高速道路が上を走る国道246号線には、歩行者や自転車が渡れる信号が大橋の目黒川横から旧山手通りとの神泉町交差点までない。神泉町交差点から青山方面だとJRのガードの先どこまで行ったらあるのか知らないほどだ。氷川神社前と大坂上バス停前には歩道橋があり、道玄坂上には2箇所に横断地下道があるのだが、自転車の通行には不便だ。高齢者に階段はきついし、地下通路は密室を歩くようで、気持ちよいものではない。南平台方面から自転車での渋谷への進入を事実上制限しているようでもある。
こんなに不便なことになっているのに対し、南平台方面から道玄坂上交番方面へ歩行者が信号で渡れるようにする陳情をしているそうだ。しかし、都道とは違い国道なので、話がなかなか通りにくいのか。そこに大河があると思ってあきらめるか、ねばり強く声を上げ続けるかということなのだろう。

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中川伯爵邸の痕跡(4月16日)

「私たちは子供の頃、道玄坂の途中右側に、幅1間(約1.8メートル)の私道を15間(約27メートル)も奥に引いて、そこに武家屋敷ふうに門を構えた中川伯爵邸のあったことを覚えている」と『大正・昭和道玄坂』(1978年)にある。
中川伯爵とは豊後の岡藩主だった7万石大名中川家の当主であり、現在は菅刈公園、西郷山公園となっている場所を別邸として所有していた。それが、1869年の版籍奉還、71年の廃藩置県の後、廃城令により1872年までに岡城が破壊され、岡藩領は大分県に吸収されてしまう。その後、西郷山と呼ばれるようになった約6ヘクタールの別邸を1874年に西郷従道に売却し、江戸藩邸の上屋敷、下屋敷も失って、現在は百軒店になっている1ヘクタールほどの土地に移り住んだのだろう。西郷従道は西郷隆盛の弟であるが、その父吉兵衛は41石の鹿児島城下士であった。維新後わずか7年の間に41石の城下士の子として生まれた31歳の若者に7万石大名の屋敷を売り渡すことになったのだ。明治維新で活躍した人がいる一方で、先祖代々の資産を失った人たちも少なくないわけだが、その物語は語られない。
それから50年後の1923年には、西武グループの祖で当時34歳だった滋賀県の農家長男の堤康次郎が皇族・華族の土地を買いあさる活動をはじめる。その対象の一つに中川伯爵邸も選ばれたのだろう。その土地は堤の会社の分譲地となった。
それから百軒店の歴史が始まるのだが、百軒店と西郷山とが中川家という共通の歴史をもつことはほとんど意識されてはいないようだ。道玄坂との境界の切通し上の道は、上記の15間奥にあった幅1間の私道だったのではないかと思われるわずかな痕跡である。

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サラリーマンの渋谷(4月15日)

首都高の下を走る246とマークシティの間、渋谷東急プラザビルの裏側一帯は渋谷中央街と呼ばれる。飲食店の多いところで、道玄坂商店街の道玄坂とマークシティに挟まれたエリアとの一体性が感じられる。若者の渋谷ではない、新橋や神田のような雰囲気のあるところだ。昼間よりは夜の方が活気が出てくる街でもある。
渋谷マークシティのホテル棟とオフィス棟の間の道は井の頭線の渋谷駅西口改札口があり、その両側が飲食街として渋谷の事務所で働く人たちの寄り道場となっている。どこにでもある駅前飲食店街の規模を拡大した感じで、公園通り、センター街、文化村通りなどと較べると渋谷らしさがない。それだけに渋谷の街の散歩道にはならないのだが、実用性という意味ではあなどれないものがある。渋谷の顔の一つとしてもっと評価されるとよい。昭和の雰囲気を演出する工夫などがあってもよいのかもしれない。


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刀エクササイズ(4月14日)

おもちゃの日本刀を使ったエアロビクスを「刀エクササイズ」とよんでやっている。場所は山手通りの目黒橋横。池尻スタジオの看板が出ているビルの地下だ。本格的には今年になってから始まったようだが人気があるらしい。YouTubeの映像を見ると実に楽しそうだ。「脂肪を成敗しちゃおう!」ということで、5キロやせるフィットネスプログラムの女性限定。男性には残念なのだが、これが人気になるとバリエーションもいろいろ出てくるだろう。剣術○○流、天狗舞、忍者エクササイズなどなど。カラオケが歌の伴奏であるように、剣を持ってバックミュージックで遊ぶということも考えられないか。暴れん坊将軍エクササイズなんかも登場すると楽しい。若い人による新事業の創出がこうした分野でも活発化していくのだろう。


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ああ渋谷駅(4月13日)

♪♪どこかに故郷の香りをのせて 入る列車のなつかしさ 上野は俺らの心の駅だ♪♪と今でも歌われる上野駅。十年以上も前から、地下を走る東京行き新幹線に「故郷」の香りを奪われてしまった。新幹線ばかりか、バスや飛行機も上野駅を「伝説の駅」にしてしまい、今では常磐線、高崎線の通勤電車の乗換駅としての色彩が強くなっている。上野駅が渋谷駅のようになってしまったわけだ。
一方、通勤電車の乗換駅として発達してきた渋谷駅に歌は似合わないようで、有名な歌は記憶にない。タイトルに渋谷をつけている歌は検索で8曲表示される。「渋谷漂流記」「渋谷零時五十二分」「渋谷のネコ」「渋谷」「渋谷でね」「渋谷Flower Friday」「渋谷ものがたり」「渋谷で5時」というタイトルだ。この中で広く知られている曲があるのかどうか。歌い出しだと「渋谷を歩く一人で歩く人ごみの・・」「渋谷で渋滞なの夕方5時の・・」「渋谷で歌って帰り道走る車から・・」といったものが見つかったが、知らない。
東急東横店に地下鉄が入っていく渋谷駅の姿は1938年からの地下鉄開業以来のもの。もう72年もの歴史ある都市風景になっているのだ。現在、この渋谷駅の風景をなくしてしまう再開発計画が進んでいる。東京駅、中央郵便局などの古い建物は保存の価値が認められるようだが、渋谷駅の都市景観は守られるべき都市景観とは認められないらしい。地下鉄がビルの中に入っていくのを見ることができるのもあと数年のようだ。
それまでには「ああ渋谷駅」という歌がでて、現在の景色が伝説として後世に伝わるようになるといい。この景色はハチ公に劣らぬ価値があるような気がする。

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渋谷駅前(4月12日)

渋谷駅前はNHK放送センターから近いこともあってか、東京を代表する映像として伝えられる。だからといって渋谷が東京を代表する街とはいいがたい。学生時代は渋谷に来ることのあった人たちでも、就職して渋谷駅を通らないところに住めば、渋谷とは縁のない人の方が圧倒的に多いはず。新宿、銀座、新橋、恵比寿、六本木といった街の方が幅広い来街者を集めているようだ。
渋谷を有名にしたのは、ハチ公から、パルコ、109と時代によりさまざま。しかも商店街は公園通り、道玄坂、そして渋谷センター街と分かれている。東口方面、中央街、桜丘もそれぞれ別世界だ。カオス状態にあるといってもよいのか。
地形による道路や建物の不規則性も、渋谷を他にない個性的な街にしているといえよう。人混みをすら、居心地のよさと感じる世代もありそうだ。
人がほとんどいない早朝の渋谷駅前に渋谷の素顔を感じとれないだろうか。

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西村フルーツパーラー(4月10日)

渋谷駅前の西村フルーツパーラーは、渋谷では東急百貨店と並ぶ老舗の渋谷西村の店。明治43年に小石川で創業した高級果物店が、昭和10年に現在の場所で高級果物店を開設し、翌11年にフルーツパーラーを開設したものだ。東京では、日本橋の千疋屋が明治20年に果物食堂として営業を開始したのがフルーツパーラーの始まりのようだが、その名前やメニューはどこの国からきたものなのか。今ではケーキの有名店が数多くできているが、フルーツパーラーはその先駆けといえるのかもしれない。
新宿の高野が大正15年にフルーツパーラーを設立しているのに対し、西村は渋谷に初めての地下鉄が開通する昭和13年以前、ターミナルとして機能が完成する前からのスタートだ。千疋屋や高野ほどの知名度ではないが、ある時代の姿を守る姿勢は感じられる。変わらないという営業戦略もあってよい。百軒店のライオンはその典型だ。

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小型風力発電機(4月9日)

駒場Ⅰキャンパスの野球場に近いところに小型風力発電機が設置されている。「東京大学NEDO新環境エネルギー科学創成特別部門@教養学部(NEDO特別部門)」によるものだ。これは、独立行政法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構」(NEDO)のプロジェクトである「循環社会構築型光触媒産業創成プロジェクト」の一環として採択された「新環境科学創成のための人材育成・異分野融合拠点化事業」により実施されている。平成19年度から平成23年度にかけての5年間のプロジェクトとなっている。
風力発電機というと海岸沿いに並ぶ巨大な風車がイメージとしてよく使われるが、住宅地でも使える小型のものが日本で開発されている。「エアドルフィン」が2005年から受注開始となり、既に世界各国に設置されて、その様子をライブ映像や写真集で見ることもできる。
http://www.zephyreco.co.jp/livecamera/live/index.html
エアドルフィンは自宅や山小屋、船舶などへの設置も進んでいる。環境学習の一環として、自然エネルギーへの関心は必要だろう。
NEDO特別部門では15日(木)18時から19時30分の間にタレントのルー大柴さんを呼んで、トークショーを開催する。場所は駒場コミュニケーション・プラザ正面の建物の1階ギャラリー。新入生歓迎トークショーというところか。
「ルーさんご自身が日頃実践しているMOTTAINAIの心がけ、また人生(ライフ)についての深いお話をしてくださる予定です。このトークは聞かなきゃMOTTAINAI!」ということだ。

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砧公園の桜(4月8日)

都内に桜の名所は数多くあるが、仕事をしていれば1シーズンにそんなにあちこち回れるものではない。今年は寒さのため開花期間が長かったようで、開花して2週間以上たった今でも満開を少し過ぎた程度の花見を楽しめるのは幸運といえよう。
今日はたまたま誘われたので砧公園に昼の弁当を食べにいってきた。池尻大橋から田園都市線で4つ目の用賀駅で降り、歩いて10分ほどのところだ。元ゴルフ場だった公園にはほどよい起伏があり、大きな桜の木が枝を地面に落とすようにして点在する。平日なので花見客もほどよい程度。晴天に恵まれた気持ちよいひと時だった。
砧公園は知る人ぞ知る桜の名所のようだ。都心ではないから人が集まりにくいものの渋谷からだとすぐだ。
あまり知られないほうがよいのだろうが、東京で桜をゆっくり楽しむ場所としてはトップクラスである。

砧公園への道
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砧公園入り口
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Bunkamuraと円山町(4月7日)

Bunkamuraは文化村とは書かない。文化村通りという表記はあるが、Bunkamuraそのものを文化村としないのは、商標上の問題からだろうか。平成元年にできたこの大型文化施設は今年の9月から22年目に入る。東急本店通りが文化村通りに改められ、1998年にはブックファーストの大型店が東急本店前にできたが2007年にわずか9年の営業をもって閉店し、そのビルも壊されて、跡地にはH&Mの入るビルができた。文化村通りが今のようになることをその名がつけられた時点で想定していたのかどうかは分からない。
現在工事中で2012年春に渋谷駅東口側に完成する地上34階建てのビルに東急百貨店が入居する予定になっている。そのビルには約2000席とオーチャードホール並の規模のミュージカルを中心とする劇場も開設される。東急本店を東横店と一体化して入居させることも選択肢の中にあるかもしれない。
Bunkamuraと道玄坂上から渋谷マークシティへのつなぐ道はランブリングストリートと呼ばれ、若いミュージシャンの演奏会が開かれるライブスペースが10以上、5スクリーンのシネマコンプレックスもある。しかしながら、道路が狭くちっと入りにくいような雰囲気から回遊性に乏しく、通る人は限られる。
Bunkamuraとマークシティの道玄坂上の出口がつながれば、渋谷の魅力が圧倒的に高まることは間違いなく、そのための構想が練られ、その実現に向けての地権者との勉強会が平成18年度というから、もう4年も行なわれていることになる。今年度は「まちづくり専門家派遣事業勉強会」として継続される。
渋谷の街は1920年から1990年までの70年の間は、どの20年を切り取っても街の姿を大きく変えていった。しかし1990年からの20年は、丸の内、六本木、新宿、新橋、品川、浅草といった他の地区と較べると、相対的に停滞しているといわざるを得ない。
円山まちづくり勉強会でのイメージ映像は、地権者の方々の理解と協力を得るためのものとはいえ、こんな街ができたらその経済効果は計り知れない。Bunkamuraのイメージが建物から外に拡がっていくことができるかどうかがカギだ。

http://sites.google.com/site/maruyamacho/home-2

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百軒店の歴史と今(4月6日)

渋谷百軒店は計画的に作られたショッピングセンターを起源にもつ。1923年9月1日の関東大震災で多くの店が被災したため、下町から有力な店を誘致しようと、西武グループの全身である箱根土地株式会社が開発したものだ。店をまとめて誘致するという試みは日本で最初のことだったのかもしれない。道玄坂からでもランブリングストリートからでも、坂を上がると平坦に整地された土地に直線の道路があるのが渋谷では珍しい。1928年の地図では聚楽座、喜楽館、渋谷キネマの名前が、現在ライオンズマンションが建っている場所に見られる。千代田稲荷は百軒店の中央の道の突き当たりにあり、現在社殿のあるところは、台湾館と表示されている。
当初の街並みから1945年5月の山手大空襲で焼けるまでの17年が第1期。渋谷で一番にぎやかな場所だったのだろう。戦後も1946年から復興がはじまり、戦災で焼け残った渋谷キネマはテアトル渋谷となり、テアトルハイツ、テアトルSSといった映画館と数多くの飲食店ができて、渋谷一の歓楽街となっていった。ここにボーリング場があった時期もある。60年代後半から70年代初めにかけてのことだろう。この1946年から75年までの30年を第2期と区切ってみる。戦災後、千代田稲荷神社は現在の場所に移っていた。この時期は百軒店の黄金時代ともいえそうである。
しかし、1978年9月にサンモール道玄坂、1979年4月にライオンズマンションが竣工したことで街の風景は大きく変わった。映画館もボーリング場もなくなり、それでも1990年代の初めまであったジャズ喫茶やバーがこの街を特徴づけた。76年から91年までの15年は渋谷の繁華街の中心が公園通りに移り、百軒店や道玄坂は、若者の街として渋谷が最も注目されていたこの時期には比較的目立たない存在になっていった。それでも日本は経済的に余裕のある時代だったので、百軒店も賑わっていたらしい。周囲をラブホテルが囲むようになったのもこの時期なのだろう。
そしてバブル崩壊から現在までは失われた20年といってもよさそうだ。残念ながら性風俗の街というイメージが一般化してしまい、多くの店から客足が遠のくようになった。周辺には多くの客を吸収する新しい飲食店が並んでいる。
しかし、その状態に甘んじてはいるわけではない。渋谷の真ん中にあるという地の利と過去の文化の担い手としての歴史を生かして、魅力ある街づくりをしていこうという意欲がある。百軒店まつりなどによる努力は積み重ねているのだが、復活への道はこれから。この3月にオープンしたネットカフェが新しい風を吹き込みはじめた。いよいよ何かがおこりそうだ。

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昭和3年の渋谷(4月5日)

昭和3年(1928年)の渋谷駅から道玄坂にかけての商店・住宅名が記入された地図のコピーを入手した。山手線、東横線、玉電はあるが、井の頭線と地下鉄線はまだないころだ。道玄坂と百軒店に商店が集中している。渋谷駅の東側には渋谷小学校、東急本店のところに大向小学校、セルリアンタワーのある場所には大和田小学校があり、他と較べて敷地の広さが顕著なことに気づく。小学校が重要な施設とされていたことがうかがえる。
渋谷駅前には広場などなく、商店が密集していることにはいささか驚いた。甘栗太郎が当時から駅前にあったことも分かる。それから昭和13年までのわずか10年の間に、井の頭線、地下鉄線、東横百貨店が完成してしまう。旧山手通りもその間にできたのだろう。ものすごいスピードで街は変わり、そして昭和20年5月には焼け野原になってしまう。それでも、10年の後には日本一の高さとなった東横西館、プラネタリウムが完成して、東京の代表的副都心になってしまうというのもすごい。昭和3年からの30年間の渋谷の変化はめまぐるしいというほかない。
昭和30年代の写真がマークシティのクリエーションスクエアで現在展示中だ。それまでの30年、そしてそれからの30年、つまり昭和63年(1988年)に至る変化を意識して見ることができればよいのだが、当時の記憶のない人、つまり50代にならない人たちにとってどの程度関心をもってもらえるのか。更にそれから30年後は2018年となるが、それまでにはこれまで積み重ねられた渋谷駅の光景をゼロから再出発させることになるのだろうか。
30年ごとの区切りで街の変化をその時代背景を考えながら眺めると興味はつきない。それぞれの場所にある物語を大切にしたい。ハチ公だけが渋谷の物語であってはならない。

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せたがや道楽会と旧暦カレンダー(4月4日)

「せたがや道楽会」という世田谷区の「地域の絆活性支援事業」の協力も得ている団体がある。8年前からメンバーが集まり、現在三宿のバス停前の「まんまるの木」というカフェを拠点として、「コミュニティ誌 いけじりみしゅく耳嚢(みみぶくろ)」というコミュニティ誌の発行など、地域の雑談を拾い集める努力をしている。渋谷WESTの更に西にそうした活動のあることはうれしいことで、今日は、渋谷から三宿までの大山街道の歴史を探るウォーキング会に参加させていただいた。駒沢給水塔風景資産保存会からの参加者もあって、地域情報を集めているグループのあることを知ることもできた。こうした地域でのさまざまな活動がインターネットによってつながり交流が進むことで、地域情報が蓄積されていくことになるだろう。
ちなみに、「まんまるの木」では旧暦カレンダーを販売している。日本の伝統文化を理解する上でも、身の回りのカレンダーの一つとして旧暦のものを置くことも必要ではないか。

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渋谷東急プラザ(4月3日)

渋谷東急プラザは1965年に渋谷東急ビルとしてオープンし、69年から現在の名称となった。ビルは築45年ということになり、建替えの検討に入っているらしい。東急プラザのテナントにはビルの敷地で営業していた商店が入っていることから、マークシティのように商店のなかった土地にできたビルとは違い、テナント構成にはアメ横のような無秩序感がある。特に地下の丸鮮渋谷市場は過去の商店街そのものともいえる。米屋、菓子屋、台所雑貨屋、お茶屋、韓国惣菜屋などもあるが、メインは肉屋、魚屋、八百屋で、それぞれ独立した売り場になっているところがスーパーとは違う。
2階から4階の衣料品売り場も若い人向けの多い渋谷では異色だ。渋谷の街では来訪者の平均年齢が一番高いところでもあり、それだけに高齢者には落ち着ける場所でもあるようだ。最上階の9階には10、地下2階には5つの食事の店があるが、高齢者も参加できる会食の場として安心して時間を過ごせる場となっている。
これを建替えするとなると、完成は5年以上先の話。現在の店舗構成が再現されることにはなるまい。その間、慣れ親しんだ人たちは渋谷での行き場を失い、来街者が減るだけの結果にならないか。経済成長が見込めない今、将来の街の姿を考えるのは難しい。

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松見坂防音ハウスの撤去(4月2日)

3月28日に大橋ジャンクションが開通したけれど、山手通りの工事が終わるのは4年後のことになる。大橋地区再開発ビルと大橋ジャンクションの屋上庭園が平成24年末に完成しても、中央環状品川線の工事は25年度まで続くからだ。完成したばかりの新宿線の壁面を壊して、大橋ジャンクションにつながる道路と、中央環状線として直進する道路をつなぐ工事が始まっている。
工事は地下でのことなので、地上で分かるのは防音ハウスができたり、取り壊されたりということ。今ある防音ハウスの撤去がはじまっていて、6月中旬にはなくなるスケジュールとなっている。撤去した後、山手通りの大橋2丁目側に車を通し、青葉台4丁目側は中央環状線に向かって竪穴を掘る工事現場となる。一旦撤去した防音ハウスを移設することになりそうだ。
山手通りは新宿線の完成により道路幅が半分でも渋滞の心配がないようだから、品川線完成の暁には自転車専用路とか植樹とかがされて、公園のような道になることを期待しよう。
でも、そのころの日本はどうなっているのだろうか。電気自動車ができているのか、カーシェアリングが進むのか、自転車がもっと使われるのか、1ドル何円か、株価は、雇用は、財政は。。。 心配したってはじまらない人と、心配しなくてはいけない人がいるのだなあ、と考える。

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西郷山公園の桜(4月1日)

西郷山公園のルーツは豊後の国、竹田城主であった中川氏の抱え屋敷にある。抱え屋敷とは上屋敷・中屋敷・下屋敷に次ぐ大名の屋敷で、百姓地などを購入して囲い込んだ土地なのだそうだ。ちなみに、上屋敷は藩主やその家族が住む公邸、中屋敷は隠居した藩主やお世継ぎが住む予備の邸宅、下屋敷は庭園を配した休息用の別邸を指すらしい。
明治維新になり、征韓論に敗れ1873年に下野した兄の西郷隆盛ために、この2万坪の屋敷を西郷従道が手に入れた。大名屋敷が下級武士出身で30歳だった政府高官の手に渡る経緯はどうだったのだろう。なお、西郷従道が別邸として利用するようになったのは隆盛が自刃した1877年以降とされる。屋敷は1941年に西郷家から国鉄の手に渡り、1945年5月の山手空襲で和館などが消失した後、国鉄スワローズの練習場にもなったりしていたが、丘陵の上の部分を目黒区が買い取り、1981年に西郷山公園として開園した。屋敷のあったところは20年後の2001年に菅刈公園として公開された。
公園になる前は遠く富士・秩父の山並みを望む景観が素晴らしかったのだろうが、世田谷に陸軍の施設があった頃は、土ぼこりで空が曇っていたそうだ。現在は山手通り沿いの建物を見るばかり。それでも桜の木が植えられて、空が広がる公園の眺めは気持ちよく、花見をするグループは多い。目黒川から坂道を上って西郷山公園から旧山手通りに出る花見コースを歩く人もあるだろう。朝のラジオ体操の会場にもなっている。今朝の桜は7分咲きだった。

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