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遠江橋と松見地蔵(3月12日)

淡島通りの松見坂下を横切る川が流れている。空川(そらかわ)という名前で現在は暗渠になっているが、50年ほど前にはよく氾濫したそうだ。川には橋がかけられていて、その名前は遠江橋(とおとうみばし)といっていた。伊達遠江守によって創設されたことによるようだ。伊達遠江守とは宇和島の伊達家のことで、徳川時代初期からその名が使われているため第何代の遠江守の時なのかはわからない。淡島通りは甲州街道中出道・瀧坂道と呼ばれた中世から重要な街道で、しかも徳川時代になってから薬草園・御用屋敷に向かう入り口のような橋だったのだろう。空川は太古から流れていたにちがいないし、簡単な橋はあったのだろうが、御用屋敷ができたことで橋が立派になったことも想像できる。
明治21年に陸軍乗馬学校ができてからは明治天皇も通行し、危険を防ぐために板橋をレンガ作りの眼鏡橋に改築した。坂の上の雲の主人公の一人である秋山好古も、陸軍乗馬学校長として日常的にこの橋を渡っていたことだろう。大正2年の道路改修の結果、別に木橋を作って新遠江橋と名づけ、昭和10年までには道路舗装により架け替えられている。陸軍がなくなる昭和20年まで、陸軍の使う道路であり、車より馬の通行が多く、いつも馬糞が散らかっている道でもあった。
今では橋のあったことなど想像もできないが、橋の欄干の石が松見地蔵の横にあり、山手通りを渡ったところには石橋供養塔と書かれた石碑が保存されている。淡島通り拡張のときに移動されたものが、山手通りの反対側に置かれ放置されてしまったが、2年ほど前に見つかったとか。文化9年(1812年)に近隣の13カ村が建造したとある。目黒区教育委員会で拓本をとって調査中とは聞いたがどうなったか。伊達遠江守の名が刻まれているのだろうか。
遠江橋の横には松見地蔵尊があり、享保11年(1726年)と書かれた石が残っていることから、その時代には地蔵尊のあったことをうかがわせる。
松見地蔵の対岸には松見茶屋があったと記録されているが、空川の対岸を意味するのか。茶屋は下宿屋となった後、昭和10年頃には洋服店になっていたと「目黒区大観」にはある。
橋や地蔵尊は長い間、重要な公共の建造物であり、土地のシンボルでもあった。今では巨大な建造物と自動車交通を前提とする街並みになり、徒歩で街を見ることは特別のことになってしまったようだ。そのことが住民を地域の歴史から切り離し、地域に対する無関心をもたらしているとまでいえないだろうか。電車に乗って遠方の街を散策するのは、そこから発信されている情報を確認しに行くことを意味する。人を呼ぶために情報を発信している地域の多い中、渋谷近辺の街の情報発信量は十分とはいいがたい。

石橋供養塔
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「とうとふみばし」と刻まれた石柱
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松見地蔵尊
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松見地蔵から空川暗渠への階段
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空川は今もこの下を流れている
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