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江戸と駒場の歴史(3月10日)

徳川家康が江戸城に入ったのは1590年。小田原城の北条氏を豊臣秀吉の軍勢が滅亡させ、関八州を徳川家康に与えることになったとき、家康は小田原城を居城とするものと思っていたところ、秀吉が江戸城を居城とすることを命じたと記録されている。当時は小田原と鎌倉が関東の要地であり、江戸城は「東の方平地の分は、ここかしこも汐入の葦原にて、町家侍屋敷を十町と割付くべきやうもなし。西南の方はびゃうびやうと葦原武蔵野へ続き、何処をしまりと云うべきやうもなし、御城と申さば昔より一国を持つ大将の住たるにあらず」(岩淵夜話別集)という状態だった。
江戸城が豊臣方に落ちた1590年には世田谷城も廃城となった。一方、それよりも500年ほど遡った時代、駒場野には奥州街道が通っていて、源義家の奥州出兵にあたり、ここで酒宴が開かれ、その時用いた土器を地下に埋めて塚にしたとの言い伝えもある。(東京名所図会)
徳川時代には、駒場野が幕府に鷹狩の場と指定され、1663年には御用屋敷ができたと記録されている。場所は現在の都立駒場高校から駒場東邦中高校のあたり。徳川将軍の鷹狩の折は、現在の松涛2丁目交差点から駒場キャンパスとなった鷹狩場に入り、御成道から御用屋敷で昼食をとったということだ。鷹狩場は幕府の管理下にあったため、川井家文書として残されたものから、当時の駒場の様子をうかがうことができる。将軍が定期的に訪れる土地だから、そうでないところと較べてどうだったのか、そんなことも研究テーマになるのだろう。
駒場という狭い土地を中心にして千年の歴史を考えると、日本の歴史のみならず、日本社会の深層が見えてきそうだ。

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