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2010年3月

目黒川の桜並木(3月31日)

ウォーカープラスの「全国お花見900景」というサイトにある「お花見人気スポットランキング」では、その関東版のベスト8の順位が、千鳥ヶ淵、上野公園、隅田公園、新宿御苑、代々木公園、飛鳥山公園、目黒川、靖国神社、となっている。
千鳥が淵は緑道とはいえ、北の丸公園の桜を見るわけだから、公園ではない生活道路を歩く目黒川は、その種の花見スポットとして関東一だと自慢できる。関西では2位にランキングされている夙川公園が目黒川と同様に橋から桜を眺めるという点では似ているものの、六甲山の麓ということで、都会の桜とは趣をことにする。その他のランキングに入っている名所に街の桜並木はない。だから目黒川の桜並木は、街の桜並木としては日本一であり、海外ではポトマック川の桜並木が有名とはいえ、これは公園の桜並木なので、街の桜並木としては世界一といえそうだ。背景が生活空間なので写真写りは公園内の桜の名所にはかなわないが、それでも中目黒駅付近が最近整備され、大橋ジャンクションにかけての川沿いの道が、帰り道に気軽に散歩できる桜の名所としてますます人気が高まることだろう。
そんな目黒川の桜並木、4月1日からライトアップをして夜桜も楽しめる。満開は金曜日になりそうで、この週末には大変な人出が予想される。

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駒場の桜(3月30日)

今年の東京はソメイヨシノが咲いている期間、総じて天気に恵まれない見通し。そんな中で今日は雲ひとつない晴天に恵まれた。もっとも寒さは厳しく、朝方は氷もはっていているほど。駒場のソメイヨシノはまだ7分咲き程度なのでお花見日和というわけでもなかったが、これから1週間先の天気予報を見ると、青い空を背景する写真を撮れたのは今日だけだったということにもなりかねない。
駒場公園、駒場野公園、東大駒場キャンパスと静かに桜を楽しむ場所が駒場にはある。それぞれの場所で、楽しそうにお花見をしているグループかけられるものの静かである。桜の木の本数も少ないから、遠方からわざわざ来る人がいないのが特徴で、目黒川の賑わいとは違い飲食のサービスなども全くない。桜並木ではなく、点在する桜を求めて歩くのが駒場の花見というところか。近くには目黒川と代々木公園という花見客の多いところもあるが、趣の違う散歩道といえるだろう。花見客をあてこむ商売はしにくい。

駒場公園は幼児とお母さんたち
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駒場Ⅰキャンパスの桜並木
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駒場野公園ケルネル田んぼ横
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駒場野公園でバーベキューを楽しむ人たち
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駒場野公園拡張部分
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昨日の新宿御苑は驚くほど静かだった
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大橋ジャンクション開通後(3月29日)

昨日午後4時、ようやく中央環状新宿線が大橋ジャンクションで3号渋谷線と合流した。巨大な建築物もスカイツリーと較べると話題性は乏しいようでもある。何よりもその中の様子が全く分からず、その上工事は中央環状品川線が開通する2013年3月までは続くのだから、外から見た目では工事中の状態が続くにすぎない。それでも、山手通りの大坂橋から初台にかけての交通量は大幅に減ったように見える。半減したといってもよいかもしれない。また早朝の高速夜行バスの通行が見られなくなったのはいささかさびしい。
一方で、首都高のホームページを見ると、開通した山手トンネルの内回りと、大橋ジャンクション内が午前中ずっと渋滞していた。大橋ジャンクションを中から見物しようという車が多いための混雑なのか。ちなみに、首都高の用語では、混雑と渋滞を区分していて、混雑がオレンジ、渋滞が赤という表示になっている。富ヶ谷出口などをうまく使うようにすることで渋滞は緩和されるのかどうかこれから見守りたいが、この早速の渋滞について取材する報道機関があるのかがちょっと興味深い。開通してガラガラというよりはよいことといえ、首都高がおかげ様で渋滞ですと記者発表することもないだろう。
http://www.shutoko.jp/map/#/realtime/

目黒川の桜の向こうに見える大橋ジャンクション
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品川線の工事が続く
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工事が終わるのは3年後
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大橋ジャンクションの出入口の中は見えない
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山手通りはすいている
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松涛の花見(3月28日)

花冷えという言葉がぴったりで雨も降り出しそうな午後、お花見にはどうかという日曜日ではあったが、桜を見下ろす室内での花見は快適だった。場所は東大裏交差点の裏にあるニュージーランド大使館やモンゴル大使館に近いところ。屋上からは今日開通した中央環状新宿線の富ヶ谷出入口が見える。お花見だから椅子ではなく床に座るというスタイルでもおかしくはない。
参加メンバーはヨルダン、ミャンマー、メキシコからの留学生とさまざまな日本人男女で総勢13名。英語を標準語としてわいわいがやがや。つまみと、ビール、ワインで楽しいひとときを。主催された方と会場の管理人さんに感謝。とてもプライベートな雰囲気の場所なのだが、電話で相談すれば利用できる。
http://shibuya-west.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-7ba9.html
山手トンネルの午後4時の開通時に、上から富ヶ谷出入口の様子を見ていたのだが、セレモニーは大橋であったとしても、こちらは、ついに開通!!ということもなく、普通に車が入っていった。一番乗りは誰だったのだろう。大橋ジャンクションは地上との接点がないのだから、ここでテープカットでもあるかと期待したけれど、そこまでは手が回らなかったのか。意味のない費用は使わないという大人の対応だったのか。NHKのニュースも成田空港の発着枠が増えたことが重大ニュースのようだったが、大橋ジャンクションはスルー。ヘリコプターは空を飛んでいたのだが、やはり東京のローカルニュースは価値がないのだろうか。

不思議なパーティ会場
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富ヶ谷出入口から山手トンネルに入った2番目の車
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東大裏の交差点の工事は続く
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ステージのあるレストラン(3月27日)

ホテルのディナーショーの若者版となりそうな、ミュージック”ビュッフェ”レストランが渋谷109の隣にある渋谷プライムの5階に3月14日にオープンした。店の名前は「スペースシャワーTVザ・ダイナー」。スペースタワーTVという音楽放送をしている会社が経営するもので、350席があり、100種類の食べ物をランチ(10:30-17:00)、ディナー(17:00-22:00)、バー・ヌードル・スイーツ(21:00-5:00)の区分によりビュフェ形式で提供する。食べ放題・飲み放題のコースがいろいろ用意されていて、45分のハーフタイムビュッフェのビュッフェ+ソフトドリンクで1000円から、120分フリードリンク・ディナービュフェの3700円まで、時間と飲み物の組み合わせでいろいろある。ライブはディナータイムの19時、20時半、22時の3回で、土日祝日は13時、14時半、16時という設定だ。
109を見てこのレストランで食事というツアーも考えられるし、海外からの観光客だと4階にある「京町恋しぐれ」のテーマパークのような作りの和風レストランが喜ばれそう。こちらは450席もある。
東京を代表する観光地渋谷として、ツアー客の受け入れ体制ができつつあるようだ。

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新・渋谷案内(3月26日)

「ランブリングストリートで映画&音楽を楽しんだあとは、語りつがれる街の伝統を肴に美味しい料理とお酒を味わってみてください」と書かれた「新・渋谷案内」が配布された。映画館ユーロスペースで先週土曜日から今日までの1週間開催されていたイベント「百軒店・シネマウィーク」のために用意されたのだろう。百軒店の地図をベースとして、43軒の飲食店の紹介に加えて23軒のバーやクラブの名前が出ている。これを見てあちこちの店を散策する人が出てくればよいのだが、それぞれがどんな店なのかを把握するには1年はかかりそうだ。ユーロスペースの常連でもないとこの地図の価値は分からないのではとも懸念する。ラブホテルに囲まれた百軒店の外観から、これだけの由緒のある店があるとは想像もしにくいし、ある意味では、東京の文化遺跡を発掘するような作業になるともいえる。
渋谷初の劇場「聚楽座」が大正13年にできて、こけら落としの公演には水谷八重子や市川猿之助が出演した。渋谷の映画街としてテアトル系の映画館3つあった。「道頓堀劇場」はコント赤信号などの若手芸人を数多く輩出した。ジャズ喫茶「ブラックホーク」「DIG」「ありんこ」「スイング」「ブルーノート」などがあった。ロック喫茶の「BYG」は数多くのミュージシャンに愛されてきた。「名曲喫茶ライオン」は東京遺産といった具合に紹介されている。飲食店の一行での紹介で、その店を想像することは難しいが、何の店なのかは分かる。それぞれの店を紹介したら一冊の本になってしまうだろうが、飲食店を紹介している本や雑誌の影響力と、その店の価値は別である。
「音楽・映画とお酒の街」ランブリングストリート&百軒店が「新・渋谷」として愛されるようになれば、文化はようやく成熟してきたといえるのだろう。新宿ゴールデン街が復活したように、渋谷百軒店を愛する人たちが集まってくることを期待しよう。

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江戸流目黒川の花見(3月25日)

お花見は日本特有の世界に誇れる伝統文化。桜の名所は年毎に充実してきているようだ。自然破壊の心配がされている中で、桜の木はこれまでの歴史にないほど増えているに違いない。この数十年の間に日本各地で名所作りの努力がされてきた結果だ。自然を破壊するのではなく、自然を作るのが日本文化ともいえる。目黒川の桜もそんな新しい自然作りの努力の賜物ですっかり有名になった。
今週はじめの予想では今日あたりには5分咲き近くになっているはずだったけれど、雨と冷たい気温のため、まだまだ蕾がほころび始めた程度。そんな中でも江戸の良さを見なおす会の花見を計画通り実施した。落語「長屋の花見」を聞いてから、西郷山公園、菅刈公園を歩き、目黒川の桜を見る。江戸っ子は早い方がいいのだとのやせ我慢もしなくてはならない。急ぎ足で大坂上のハニーズカフェに戻って江戸風弁当と蔵元持参の吟醸酒で花見の後の宴に入る。同じラベルでも一番樽と二番樽の味の違いを評価しろとの難題に答えた後はさまざまな吟醸酒とイタリアワインを楽しみながら賑やかに。店内には小唄も流れて江戸ムードを演出。江戸の良さを見なおす会ならではの粋な花見と自賛した。

目黒川の桜
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料理研究家による特製弁当
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蔵元で今日つめた大吟醸酒
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そして乾杯
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1人前500円の寿司(3月24日)

3月19日に道玄坂上に新しくできたビルの1階と地下に居酒屋「梅乃木」がオープンした。ビルの中央がサイバーエージェントの看板のある入り口で、渋谷寄りがファミリーマート。外から見た1階席は、カウンター席中心のこじんまりした様子なのだが、地階に広いスペースがある。全席数は197席と、Eスペースタワーの14階全フロアーを占める権八の220席に近い。個人経営の20席程度の居酒屋だと、10軒分の店に相当することにもなるのだ。
運営はイオン系列のチムニー株式会社。「はなの舞」「さかなや道場」などの店名により、直営とフランチャイズでの展開で、全国で急速に店舗数を拡大している。外食チェーンもファミリーレストランの閉店が続く中、居酒屋チェーンは歴史のある個人店の市場に参入して拡大基調というところか。「梅乃木」は居酒屋といっても1階のカウンター席は回転していない寿司屋の雰囲気というところが目新しい。
外食の市場全体が縮小している中、飲食店の価格競争はますます激しくなりそうだ。とはいえ、31日までのオープン記念フェアは破格の値段でサービスしているので、10貫で500円の寿司の昼食など試して見る価値は十分ある。
http://r.gnavi.co.jp/e686520/

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プラネタリウムが帰ってくる(3月23日)

2003年6月に閉鎖された東京文化会館で、1957年4月から2001年3月までの34年間五島プラネタリウムの営業がされていた。当初は東京で唯一のプラネタリウムであったことから、渋谷を象徴するような施設だった。その後、プラネタリウムはあちこちにできるようになり、現在では東京都内だけでも19箇所を数えるようになっている。特に、日本科学未来館やサンシャインシティが知られているようだ。最初に渋谷にできたころはめずらしかったプラネタリウムも、今では日本中どこにでもあって、今さらプラネタリウムは渋谷が本家だといったところで、そんな話は通じないのかも知れない。それでも渋谷にプラネタリウムがないのはさびしいということからか、セルリアンタワーとインフォスタワーの間に今年の11月に完成する「文化総合センター大和田」の最上階がプラネタリウムになる。その横では屋上から本物の星空を見ることができるようにもなっている。超高層ビルの影になり目立たない場所なのだが、コンサートホールや図書館、体育館のある総合文化施設。幅広いタイプの人たちが集まってくる場所にする設計だ。
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/firm/cont/oowada.html#PLANE

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目黒川の桜(3月22日)

気象庁が靖国神社のソメイヨシノにより、東京の開花宣言をした。早速目黒川の桜を見てきたけれど、木によって様子はさまざま。当然ながら開花しているのはまだ一部だけで、五分咲きが26日、満開が29日からで、4月2日には桜吹雪になるとの予報になっている。23日から25日の間は雨模様で気温が低いと見込まれているから、咲くペースがゆっくりと喜ぶべきか。
3月27日(土)と28日(日)は「目具川さくらフェスタ2010」が中目黒から下流方向にある目黒川船入場で開催される。4月4日(日)には、東横線ガードの一つ下流にある日の出橋横の広場で、中目黒駅前商店街による「中目黒桜まつり」がある。いずれも地域の交流の場という色彩が濃い。
桜見物で特に賑わうのは、中目黒駅から上流方向へ千歳橋あたりまで。大橋まで歩く人は少数のようだ。一度は訪れるべき東京の桜の名所といえるだろう。
これから2週間、目黒川沿いの飲食店は一年で一番忙しい時期となる。しかし、その恩恵にあずかることのできる立地とそうでないところとの格差は大きい。花見客の飲食の場として呼び込む企画が求められそうだ。

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百軒店のネットカフェ(3月21日)

百軒店の中心にある竣工後何年も入居のなかった高層ビルの1階にネットカフェが入った。3月3日にオープンした「カフェ MELT 」というのが店の名前。個室のブースは18あり、その内5ブースは女性専用。オープンエリアが6席と、普通のカフェとして使う場所が3テーブルで6席というレイアウトだ。
いうまでもなく、ネットカフェはマンガ喫茶が機能を拡大して発達しただけに、マンガ本も充実している。ネットカフェを利用したことのない年齢層と、利用があたりまえのようになっている層との間の意識の差は大きい。ネットカフェ難民という言葉から、ネガティブなイメージも一部にはあるようだが、今や社会になくてはならないインフラといえる。旅先で24時間、世界とつながる誰でも使える場所はネットカフェしかない、ということもさることながら、終電を逃して朝まで仮眠をする場所として貴重な存在になのだろう。
百軒店では昼間営業している店は数えるほど。360円でちゃんとしたコーヒーが飲める店なので、道路から離れた入り口はちょっと入りにくいけれども、足を休める場所としても使える。
http://www.dlg.co.jp/melt/index.html

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百軒店・シネマ・ウィーク(3月19日)

ランブリングストリートにあるシネマコンプレックスにある3館のうちの一つ、ユーロスペースで明日20日(土)から26日(金)まで、「百軒店・シネマ・ウィーク」と題するイベントが開催される。かつて映画街でもあった百軒店との連携により、ユーロスペースが桜丘から現在の地に移って5周年を迎えた今年、「古き良き面影を残しながらも新たな歩みをはじめた百軒店を、映画を通して、様々な面から再発見してください」という趣旨から実施することにしたという。
百軒店でのトーク・イベントがあるのは20日と21日。20日(土)は渋谷を舞台に若い写真家が少女の心の動きを捉えようとする映画『渋谷』上映の後、今月オープンしたばかりのCafe MELT を会場にして原作者で写真家の藤原新也さんのトーク。21日(日)は映画監督の柳町光男さんが日本映画史上の最高傑作という1954年の溝口健二監督作品の『近松物語』の上映の後、柳町監督によるトーク。こちらの会場は千代田稲荷神社の社務所となっている。百軒店にあった劇場・聚楽座でデビューの舞台に立ち、またこの街をこよなく愛した長谷川一夫の代表作という関係からだそうだ。いずれも映画の開始は12時だ。
続く22日(月・祝)は30年間ロックバンドを続けてきたムーンライダーズの音楽ドキュメンタリー映画『PASSION MANIACS マニアの受難』。このバンドも百軒店の店BYGで活動をした縁がある。
23日(火)と25日(水)は食べ物が食卓に並ぶまでの過程を追ったドイツ・オーストリアのドキュメンタリー映画『いのちの食べかた』。これは飲食の街百軒店ということで。
24日(水)と26日(木)は『HOME空から見た地球』というフランスのドキュメンタリー映画。「日々深刻な状況になる環境問題。大きな事はできないが、小さな事から始めよう。まずはホームグラウンド=百軒店から良い街作りを」との落ちとなる。
いずれの映画も12時からで料金は1000円だ。
http://www.eurospace.co.jp/100ken.html

映画『渋谷』の主人公の部屋としてロケに使われた場所(神山町)
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Cafe MELT 入り口
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ユーロスペースからの百軒店入り口
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ユーロスペースのあるシネコン
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カラスの小屋(3月18日)

日本生態学会が3月15日から20日まで東大駒場Ⅰキャンパス内で開催されている。それと関係があるのかどうかは分からないが、最近キャンパス内にカラスの小屋ができた。真ん中が低く、その部分は天井が開いているけれど、羽を広げて抜けられる幅ではないので、外に出ることができない。小屋の中には肉らしきものが吊るされている。そのエサにつられて外からは羽を広げずに中に入ることはできそうでもあり、一方、中から外には出られないという構造のようだ。そうだとしたら、エサに釣られて入ってくるカラスを駆除するための罠として使える可能性もある。そんな研究でもしているのだろうか。カラスの鳴き声に意味があるのかなど、研究テーマはいろいろありそう。カラスについてのQ&Aを以下のサイトで見ることができる。
毎日お付き合いをしているカラスの知識は無駄ではないはずだ。
http://www.wbsj.org/nature/kyozon/karasu/html/qanda.html

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超高層ビルの時代(3月17日)

2000年から2010年までの10年間は、東京の歴史の中で、数多くの超高層ビルが竣工した時代として記憶されることになるのだろうか。超高層ビルのデータベースによるランキングによると、昨年末までに竣工した東京23区内の100メートル以上の超高層ビルは382棟あり、内2000年代に竣工した数が233棟で60%強、90年代が30%、それ以前のものが10%といった比率になる。
http://www.eonet.ne.jp/~building-pc/tokyo/to-23.htm
地理的には港区、千代田区、新宿区、中央区、江東区、品川区で84%を占めていて、この20年の間に東京は超高層ビルがあちこちに聳える街に変貌した。街の景観が少しずつ変わっているため、あまり気がつかないようでも、この10年の間の変化は少なくない。
これからも超高層ビルをこれまでのペースで建設しないと経済活動が成り立たないだろうし、技術も進歩しているだろうから、住宅地での高度規制はされても、まだまだ建設されることになるのだろう。それでも過去10年に匹敵する数ができるとすると、1年に平均23棟以上ということになり、それほど資金が続くのかという心配もする。
都心部の超高層マンションに対して、旧山手通りの代官山寄り方面は3階建て程度の建物に規制される。ランドマークのようでもあった写真の鉄塔も撤去され、その後は2階建ての建物になる計画だ。
どのような街に住みたいかは人それぞれ。超高層ビルのある街がよいのか、低層の建物の街がよいのか。いずれにせよ、その土地に適した建物ができるようになることが望まれる。そのためには、それぞれの土地の物語を作っていくことが必要なのではないだろうか。

解体前のNTT研究所
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渋谷マークシティ周辺(3月16日)

渋谷マークシティは2000年4月7日にオープンした。1907年から1969年までの間、玉川電車の専用路で、その後路線バスの専用路として使われた東急の土地と、地下鉄の車庫、井の頭線駅を再開発したものだ。そのため、ビルの中には井の頭線の渋谷駅と地下鉄の車庫があり、その上を東側はホテル、西側はオフィスとして利用している。東と西の屋上には長距離バスのターミナルもある。そんな様々な機能を持つビルであることなど知らずに、渋谷駅から道玄坂上に出る通路として利用する人がほとんどだろう。駅に直結しているし、道玄坂のかなり急な坂道を歩くよりはるかに快適だから。
一方でマークシティはそれ自体が街になっていて、外部とのつながりが乏しい。路面に接する店のない所がほとんどで、出入口も限られる。マークシティができる前も線路があった場所だからそれまでも同様ではあったのだが、道玄坂の人の流れを取り込んでしまったことによる影響はどうなのだろう。マークシティ内のテナントは「オトナ発信地」の名に恥じないだけに、その外の店とは違った雰囲気にもなっている。
マークシティと道玄坂の間の空間には新大宗ビルが複雑な形で配置されているが、駐車場が真ん中にあったりして、人の出入は限られる。出入口も道玄坂に面した1箇所だけで、マークシティの井の頭線の駅に近いところは、渋谷警察署車輌保管場所にも使われたりしている状態だ。この一帯は巨大な空間地帯といってもよいのかも知れない。いずれ再開発されるにしても、渋谷駅周辺の後ということになりそうだし、これから10年は現状が続くのだろうか。

道玄坂から新大宗ビルごしに見たマークシティ
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道玄坂とマークシティの間からの新大宗ビル
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道玄坂上から見た新大宗ビル
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宇宙から見た東京の夜景(3月15日)

宇宙飛行士の野口さん(Astro_Soichi)がツイッターで紹介している宇宙から見た東京の夜景。銀座、新宿、渋谷、池袋の光の多さが印象的だ。山手通りが氷川神社でぶつかっているのも分かる。こういう光だけの景色を見ていると国境のない世界を実感することだろう。
ツイッターによる情報共有が今年になってから驚くほど急速に進んでいる。1年以内には地域安全情報などもメールマガジンだけではなく、ツイッターになるのではないか。障害は発信する側の心理的なものだ。コストはかからないのだから。それにしてもツイッター批判は少なくないし、ツイッターを使う区議会議員が増えないのも現状。インターネットという秩序破壊者への目は厳しいようだ。
(写真をクリックすると大きくなります。)


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江戸のはじまり(3月14日)

江戸城は1457年に太田道灌によって築かれた。戦国時代でも江戸は戦場になるほどの土地ではなく、1524年1月13日江戸城を北条氏綱が攻め、扇谷朝興を川越城に追いやったのが唯一の戦闘だったようだ。1590年4月22日の豊臣軍による江戸城の落城にも、激しい戦闘があったとの記録はない。徳川家康はその年の8月に江戸城に入り、1603年に征夷大将軍となってから江戸城と城下町作りを本格化させた。計画的に作られた江戸の街には全国からさまざまな人が集まってきて、江戸独自の文化が作られることになった。
1868年3月14日、芝の薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟の会見があり、薩長を中心とする役5万の東征軍は翌日に予定していた江戸城への総攻撃を中止し、4月11日、江戸城に無血入城した。これに先立つ2月12日に幕府方の彰義隊が結成され、東征軍と対立していたが、5月15日になって彰義隊討伐が決行され、早朝から夕刻までの戦いで、彰義隊は壊滅した。5月23日には埼玉県の飯能で彰義隊から分かれた振武隊が官軍の攻撃により敗退している。これらの戦闘は規模としては大きくなかったが、江戸近辺ではこの程度の戦闘すら300年の間無縁だったのだ。
京都の歴史を日本の歴史とすると、戦禍に見舞われることが多かったのだが、江戸の歴史は随分違う。戦国時代に始まり、江戸が東京となってから77年後に東京大空襲で廃墟となるまでの500年の歴史を祖先はどう見ているのだろうか。

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遠江橋と松見地蔵(3月12日)

淡島通りの松見坂下を横切る川が流れている。空川(そらかわ)という名前で現在は暗渠になっているが、50年ほど前にはよく氾濫したそうだ。川には橋がかけられていて、その名前は遠江橋(とおとうみばし)といっていた。伊達遠江守によって創設されたことによるようだ。伊達遠江守とは宇和島の伊達家のことで、徳川時代初期からその名が使われているため第何代の遠江守の時なのかはわからない。淡島通りは甲州街道中出道・瀧坂道と呼ばれた中世から重要な街道で、しかも徳川時代になってから薬草園・御用屋敷に向かう入り口のような橋だったのだろう。空川は太古から流れていたにちがいないし、簡単な橋はあったのだろうが、御用屋敷ができたことで橋が立派になったことも想像できる。
明治21年に陸軍乗馬学校ができてからは明治天皇も通行し、危険を防ぐために板橋をレンガ作りの眼鏡橋に改築した。坂の上の雲の主人公の一人である秋山好古も、陸軍乗馬学校長として日常的にこの橋を渡っていたことだろう。大正2年の道路改修の結果、別に木橋を作って新遠江橋と名づけ、昭和10年までには道路舗装により架け替えられている。陸軍がなくなる昭和20年まで、陸軍の使う道路であり、車より馬の通行が多く、いつも馬糞が散らかっている道でもあった。
今では橋のあったことなど想像もできないが、橋の欄干の石が松見地蔵の横にあり、山手通りを渡ったところには石橋供養塔と書かれた石碑が保存されている。淡島通り拡張のときに移動されたものが、山手通りの反対側に置かれ放置されてしまったが、2年ほど前に見つかったとか。文化9年(1812年)に近隣の13カ村が建造したとある。目黒区教育委員会で拓本をとって調査中とは聞いたがどうなったか。伊達遠江守の名が刻まれているのだろうか。
遠江橋の横には松見地蔵尊があり、享保11年(1726年)と書かれた石が残っていることから、その時代には地蔵尊のあったことをうかがわせる。
松見地蔵の対岸には松見茶屋があったと記録されているが、空川の対岸を意味するのか。茶屋は下宿屋となった後、昭和10年頃には洋服店になっていたと「目黒区大観」にはある。
橋や地蔵尊は長い間、重要な公共の建造物であり、土地のシンボルでもあった。今では巨大な建造物と自動車交通を前提とする街並みになり、徒歩で街を見ることは特別のことになってしまったようだ。そのことが住民を地域の歴史から切り離し、地域に対する無関心をもたらしているとまでいえないだろうか。電車に乗って遠方の街を散策するのは、そこから発信されている情報を確認しに行くことを意味する。人を呼ぶために情報を発信している地域の多い中、渋谷近辺の街の情報発信量は十分とはいいがたい。

石橋供養塔
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「とうとふみばし」と刻まれた石柱
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松見地蔵尊
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松見地蔵から空川暗渠への階段
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空川は今もこの下を流れている
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大教寺(3月11日)

青葉台4丁目にある大教寺の歴史は、正保2年(1645年)、日蓮宗総本山身延山久遠寺の直末として日達上人が高井戸村に創立したもので、山号を本覚真如山と称えたところから始まる。その後成徳3年(1713年)に下馬引沢村に移転し、徳島の蜂須賀候など諸侯の帰依することも厚く、享保7年(1722年)には梵鐘を鋳造するほどの勢いがあった。文政年間(1818年)以降は寺運が傾き衰徴甚だしかったようだが、明治28年(1895年)に寺運を挽回すべく現在の地に移した。昭和7年(1932年)には本堂新築を着工し、昭和9年に竣工した。境内の敷地が千坪余りで、富士箱根の連山を眺める上目黒の名所となったそうだ。
山手通りの工事がはじまったのは東京オリンピックの開催が決まってからと聞く。1959年5月に開催が決定しているので、それから用地買収となったのか。最近だと20年以上かかりそうなことを5年でやってしまったことになり、そのとき大教寺の敷地にどのような影響があったのかは分からない。いずれにしても現在の山手通りからの入り口は明らかに不自然だ。
その後1995年に住友不動産青葉台ヒルズビル竣工に続いて、現在の大教寺の伽藍が竣工したのだろう。ビルの敷地は大教寺の敷地だったと見られる。山手通り面して山門があるが、大坂旧道の坂上にも入り口があり、そこに大きな表札がかけられ、平成12年1月と記されている。10年前のことだから記憶のある人は多いのだろうが、書かれたものは見つからない。
歴史のある立派な伽藍のお寺なのに、インターネットで検索すると葬儀場としての紹介以上の情報がないことはさびしい。

大坂旧道からの入り口
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山手通りにある立派な石碑
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山門の先は山手通りで、富士箱根の代わりに対岸のマンションの眺望
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これが誰なのかの表示なし
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江戸と駒場の歴史(3月10日)

徳川家康が江戸城に入ったのは1590年。小田原城の北条氏を豊臣秀吉の軍勢が滅亡させ、関八州を徳川家康に与えることになったとき、家康は小田原城を居城とするものと思っていたところ、秀吉が江戸城を居城とすることを命じたと記録されている。当時は小田原と鎌倉が関東の要地であり、江戸城は「東の方平地の分は、ここかしこも汐入の葦原にて、町家侍屋敷を十町と割付くべきやうもなし。西南の方はびゃうびやうと葦原武蔵野へ続き、何処をしまりと云うべきやうもなし、御城と申さば昔より一国を持つ大将の住たるにあらず」(岩淵夜話別集)という状態だった。
江戸城が豊臣方に落ちた1590年には世田谷城も廃城となった。一方、それよりも500年ほど遡った時代、駒場野には奥州街道が通っていて、源義家の奥州出兵にあたり、ここで酒宴が開かれ、その時用いた土器を地下に埋めて塚にしたとの言い伝えもある。(東京名所図会)
徳川時代には、駒場野が幕府に鷹狩の場と指定され、1663年には御用屋敷ができたと記録されている。場所は現在の都立駒場高校から駒場東邦中高校のあたり。徳川将軍の鷹狩の折は、現在の松涛2丁目交差点から駒場キャンパスとなった鷹狩場に入り、御成道から御用屋敷で昼食をとったということだ。鷹狩場は幕府の管理下にあったため、川井家文書として残されたものから、当時の駒場の様子をうかがうことができる。将軍が定期的に訪れる土地だから、そうでないところと較べてどうだったのか、そんなことも研究テーマになるのだろう。
駒場という狭い土地を中心にして千年の歴史を考えると、日本の歴史のみならず、日本社会の深層が見えてきそうだ。

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目黒区大観(3月9日)

図書館で『目黒区大観』という書物を見つけた。昭和10年(1935年)の刊行だから今から75年前のもの。その当時10歳だった人が現在は85歳、20歳だった人が95歳で、中にはずっと目黒に住み続けてきたという人もあるだろう。また、1935年の時点から75年を遡ると1865年になり、高杉晋作や坂本竜馬が活躍していた時代だ。『目黒区大観』刊行会の会長で目黒町長を務めた宗田哲夫が当時の上目黒村に生まれたのもちょうどその頃の1866年という歴史の位置づけとなる。
目黒区が誕生したのは昭和7年10月。井の頭線開通の1年前で、陸軍の施設が上目黒一帯に広がっていた時代だ。目黒町と碑衾町が合併してできた目黒区の歴史がその3年後に市郡併合記念事業としてまとめられたことになる。「至難なる大事業ではあった」とその序文に書かれているとおり、目黒区の歴史を書くことは大変だったろうが、歴史を振り返る原点といってもよいのだろう。
『目黒区大観』から35年後の1970年にも『目黒区史』が出版されているが、それ以降の歴史は書かれていない。目黒区全域を生活圏とする人はまずいないから、そんな歴史はもはや不用なのかもしれない。
「15万区民は往古より現代に至る本区の沿革動態を知り、区に対する正しい認識と理解を深め、所謂郷土愛の心情に燃え、新旧両者相融合し以って今後の施設改善に全力を注がれるならば、本区の隆盛は国運と共に無窮に伸展するであろう。是が私の切なる希望であり、本書刊行の最大も目的である。」と序文は結ぶ。
その10年後には目黒区が空襲受けた。空襲から更に20年後の姿など想像すらできなかったことだろう。
現在から過去30年を振り返るとき、『目黒区大観』から『目黒区史』の間の35年とは比較にならないほど変化の乏しい歴史に見える。高層ビルができて、やっぱりまずかったから高度規制をして、商店街がさびれてコンビニになって、子供が減って高齢者が増えてと、なんともさえない時代だったように見えるのではないか。だからなおさら区史など書けないのかもしれない。

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江戸時代の良かったこと(3月8日)

大河ドラマ「竜馬伝」の評判が良いようだ。竜馬をはじめ、幕末には魅力的人物が輩出している。しかし、そういう人物を育てた環境や教育についての積極的評価はあまり聞かない。当時の教育内容を現在に生かそうなどということはないのだろうか。大学受験に漢文があるが、それが江戸時代の教育内容を反映しているかどうかは疑問だ。
明治維新で政府は徳川時代の文化を否定した。西洋文化を取り入れ、近代国家にすることを目指した。無論さまざまな意見の対立はあったのだろうが、否定されてしまった伝統が多いようだ。教育でも西洋から多くの外国人教師が招聘され、駒場農学校は日本の農業の近代化のための人材を外国人教師の指導のもとに育成した。ミッションスクールというキリスト教系の学校が特に女子教育で盛んになり、そこで教育を受けた女性たちが母親となって、昭和の人材を育てていった。そうして明治、大正、昭和と日本は近代化に成功して経済大国と呼ばれるようになったのだが、江戸時代の教育を受けた人材のようにスケールの大きな人材が輩出しているといえるかどうか。
明治になって江戸町人たちは、江戸が官軍に占領されたとき、「2世紀半以上の安穏と繁盛を保証してくださった公方さま(将軍)に申し訳ない」と町を人工の廃墟とし、感謝と遺憾の意を示したとのこと。官軍は解放軍ではなく占領軍だったのだろう。
江戸の神様といえば神田明神。祭神は大国主命、少彦名命と平将門命だ。730年に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建された。平将門命は処刑された平将門の怨霊を鎮めるために1309年から祭られている。
明治維新により、平将門命は逆臣とされ、明治7年に遷座させられて、代わりに少彦名命が祭られたといわれる。大国主命と同じ出雲の神様だ。その後、平将門命は昭和59年にようやく戻ってくるというのが神田明神の歴史である。出雲の神様も平将門も、大和朝廷からすると微妙な存在なのだろう。
「明治政権はおろかなことをしたものよ。江戸しぐさを含めて、すべて江戸のことは旧来のろう習と決めつけ、破り捨ててしまったことさ。あのお陰で300年近くもかけて築き上げた江戸の良さは、一夜にしてオジャンさ!」かつて、長老がこんなことをいっていたそうだ。
竜馬が夢見たのが、現実となった明治政府だったのかどうかは分からない。しかし、竜馬を育てた徳川時代の家庭や社会は、決して否定されるばかりのものではなかったはずだ。
「江戸の良さを見なおす会」ではそんなことを勉強している。

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大橋ジャンクションのトンネル公開(3月7日)

3週間後の3月28日に開通する中央環状新宿線の大橋ジャンクション内のトンネルが一般に公開された。ジャンクション内のトンネルを地上から首都高に通じる出口までと、中央環状線から入ってくる地下を一周するというもの。トンネル内では消防自動車や白バイなどの展示や建設技術・工事、安全防災、整備効果・環境・トンネル技術紹介などに加え、東山小学校のオーケストラによる演奏会も行なわれた。
小雨が降ってはいたが、多くの人たちが見学に来ていて、若い人や子供連れが目立ったようだ。道路が開通したら自動車専用だから歩いて中を歩くことなどできない。今回は貴重な機会だった。これまでもヘルメットを着用して中を見学する機会もあったようだが、今回はヘルメット不要で、盛大に工事の完成を祝うイベントだったのだろう。
工事が始まってからの歴史をスライドで流していたけれど、その間、恐らく1万人を越える工事関係者のドラマがあったにちがいない。建設主の首都高速道路、元受企業の清水建設、鴻池組、東亜建設工業、福田組、東洋建設、佐田建設、鹿島建設、大成建設、東急建設、JFEエンジニアリング、佐藤鉄工、宮地鉄工所、間組、飛島建設、鹿島道路、日本リーテック、宮川興業に加え、工事の下請け企業や、シールドマシン、鋼材、セメント、電装品などのメーカーと、関係した企業の一人一人がそれぞれのドラマをもっているはず。開通しました、などというニュースはツイッターやUstreamで誰でもできるので、報道機関はそうしたドラマを追ってほしい。そんな願いを持つのはプロジェクトXの影響からだろうか。

ジャンクションの地上内部
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1日だけではもったいない光の歩道
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渋谷線への出口
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42階建てビルの工事はこれからで、完成予定は2012年12月
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公共奉還をめざして(3月6日)

けさの京都へ向かう新幹線の車中で、ある政府高官がツイッターにこんなことを書いていた。
「その地域とか、町衆とか、商家とか、長屋で担われていた、公共を、一度近代国家が吸い上げた。その公をもう一度地域に一部奉還していただこうという思いです。でも公共奉還は決して単純な江戸への復古であってはならないと思います。前近代と近代の公共をきちんと融合して、現代とか近未来にふさわしい公共をつくらなければ。公共奉還の奉還先は、やっぱり地域であり、人々なのでしょう。」

公共を地域に奉還しようとの政策があったとしても、地域にその受け皿があるかどうかが問題だ。
例えば、町会に何ができるか。奉還という名のもとに、仕事をボランティアに押し付けようということにもなりかねない。現状では受け手は考えにくい。公共奉還の考え方を現実のものにするためには、人々の意識改革と地域社会への参加が不可欠だろう。
近代国家に吸い上げられた前近代の公の一つとして江戸講があり、それを勉強しようというのが江戸の良さを見なおす会。1969年に発足してから40年活動をしている。最近は月に1回、大坂上バス停前のハニーズカフェで江戸講の実践をしているけれど、そんな動きが地域ごとに広がる必要がありそうだ。新しい公共電子会議というのもできている。
http://www.newpublic.jp/

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オープンしたユニクロ渋谷道玄坂店の映像(3月5日)

新しい店がオープンするとテレビのニュースで紹介されることがよくあるが、リアルタイム・ウェブの時代は店が独自に映像を配信することにもなる。ユニクロは今日の渋谷道玄坂店オープンにあたり、リアルタイムの映像を午前9時半、11時、午後7時の3回にわたり流す試みをした。
http://www.ustream.tv/channel/uniqlo-shibuya1

最近は大臣が災害対策緊急情報を直接ツイッターで読者に伝え、また、裁判所の傍聴内容を被告の友人やフリーのジャーナリストが休憩時間にツイッターで流すようにもなっている。その情報を得たツイッターの読者がマスメディアによる報道内容をチェックしている。そんなことをされたら、マスメディア側としてはおもしろくないに違いない。
だからなのか「放送行政と総務省消防庁を所管する総務相が、災害放送が義務づけられる放送機関より、ツイッターの利用を優先させる考えを示したことは、今後、論議を呼ぶ可能性がある」との記事が3月2日の読売オンラインに掲載された。マスメディアをチェックするツイッター言論は、関心のある情報を転送することでもツイッターを利用している人には瞬時に伝わるのだからその影響力は無視しえない。
企業の情報にしても、直接ツイッターやUstreamで流すとマスメディアの立場からはニュース性がないとして取材の対象からはずされることもあるだろう。既存メディアとインターネットメディアのどちらを利用するか、その共存はどのような形で可能かは、論議というより企業の戦略になる。
それはともかく、新規オープンのユニクロ店内は多くの人が買い物に来ていて、フィッティングルームは長蛇の列。隣の109と違い遠方から来る必要もないと思うが、新規出店時には並んで入ることを趣味のようにする人がいることもインタビュー映像で知った。
オープンセールは7日までだが、道玄坂の人通りは増えるにちがいない。これからは37千人がフォローしているユニクロのツイッターで特売情報が出る可能性もある。
http://twitter.com/UNIQLO_JP
ちなみにshibuya109のアカウントはあるが店とは無関係の内容で、なりすましでもないけれどいずれ問題視されそうだ。

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マークシティ周辺(3月4日)

渋谷マークシティは渋谷駅から道玄坂上に連なる巨大な建物。その両側には小さな雑居ビルが並び、飲食店が密集している。表通りに多い若い人向きの大規模な店ではなく、個人経営の店が多い。商店街としてはマークシティの桜丘寄りは渋谷中央街で、道玄坂寄りは道玄坂商店街。街の雰囲気は似ていても、交流の場は乏しいのだろう。みんなライバルといってもよいかもしれない。従ってその全体像など知るよしもなく、また必要もなさそうだけれど、観察してみるとなかなかおもしろい。実にいろいろな店がある。それぞれの店には常連客がいて、その客は他の店のことなど気にもとめないはず。小さいけれど個性ある大衆的な店がほとんどなので、昼食の店を探すのには困らないだろう。夜は誰かに紹介してもらって味と値段の保証を得てからということになるのか。一番詳しいこのサイトに紹介されている店もごく一部とはいえ貴重な情報源だ。渋谷では必ずしもメジャーではないマークシティ周辺なのだが、そのカオス的な魅力には格別なものがある。

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大橋の新しいビルと新しい店(3月3日)

大橋再開発ビルが完成して入居がはじまるのは2013年1月と予定されている。同じタイミングで大橋ジャンクションの屋上庭園が完成する。それに合せて246をまたぐ歩道橋ができるのだが、その歩道橋につながる東邦病院側のビルが昨年11月に完成している。ビルには地上の歩道に面してエレベーターがあり、そこから3階まで上がって246の反対側への横断歩道を利用することになる設計だ。
3月2日に、そのビルの1階と2階にインテリアをトータルにコーディネートするセレクトショップのSEMPRE(センプレ)が開店した。店内にはデザイン的に個性のある選ばれた商品だけが置かれている。ベッドからローソクまでさまざまな種類の商品が少しずつ並べられ、プレゼントを探す店としても活用できそうだ。ロフトやハンズでは飽き足らない人たちに向いているともいえよう。
現在は周囲の雰囲気とは違って旧山手通りにあるような店なのだが、大橋再開発ビルが完成すると、歩道橋をはさんで調和がとれることになりそうだ。

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大橋一丁目公園(仮称)検討会(3月2日)

今月28日(日)に中央環状新宿線が大橋ジャンクションで首都高速・東名高速につながる。大橋ジャンクションが完成しても、その中を自動車が通過するようになるだけで、地域には何の変化もない。中央環状品川線との連絡工事や高層の再開発ビルの建設工事が平成24年度までは続くため、工事現場という見た目はほとんど変わらないのだろう。大橋ジャンクションのドーム内部の広場と屋上公園の工事は来年度からで、完成は平成24年12月の予定。住民参加での基本設計を終え、現在はそのための実施設計のつめを行なっている。
その内容について詳細に検討するため、昨夜、第8回の公園づくり検討会が開催された。上八町会長の司会により、住民代表として周辺の町会長、住区住民会議議長が会議メンバーというもの。
目黒区からこれまでの検討会での検討内容が整理・配布され、設計者から雨水利活用方法、屋上公園内の舗装仕様、水系施設のあり方、地上の多目的広場仕様、屋上公園の外周フェンス仕様、といったことについての説明と、それに対する質疑応答がなされた。
傍聴者には意見の記入用紙が配られ、3月12日までに郵送、FAX、Eメールで送信してほしいとのことである。
次回は6月までに行なわれるようで、植栽配置、ベンチの配置についての案が出される模様。
その後、9月以降に「公園・広場の利用と管理を検討する場を設置」することになっている。公園・広場の整備工事は来年4月からになりそうだ。
この屋上公園と地上広場をベースとして、新しい地域コミュニティが誕生することを期待したい。

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さくらやの閉店(3月1日)

家電量販店のさくらやが2月末で全店が閉店となり、渋谷センター街の入り口にあった渋谷店のシャッターも下りている。この後どうなるのかについては不明だが、センター街の入り口でひときわ目立ったネオンが消えてしまうのはさびしい。一方でセンター街に家電量販店は合わなかったといえないこともない。センター街、公園通り、文化村通りに、それぞれの特徴に会った店がこれから出店するようになるのだろうか。どんな店が採算に合うのかと考えるとなかなか難しそうだ。さくらやの後には、これまでどこにもなかったような店ができないものかと期待するのだがどうだろう。

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