神泉の歴史を探る(3月4日)
「この谷の全域がかつては火葬場で、人を葬ることを仕事とする人々が、多数住みついていた。神泉の谷は死の領域に接した、古代からの聖地だったので、このあたりには聖と呼ばれた、半僧半俗の宗教者が住みついていた。彼らは泉の水をわかして「弘法湯」という癒しのお湯を、疲れた人々に提供していた。」
2005年に刊行された中沢新一著「アースダイバー」に書かれている神泉についての記述の一部である。以前これを読んだとき、その根拠となる文献が分かればと思っていた。たまたま先日、渋谷の古書店で1991年刊行の古田隆彦他著「超感度都市渋谷」を見つけたので購入したところ参考になる記述が見つかった。
その本にはこんなことが書かれている。
「江戸時代の初期、神泉谷、現在の神泉町は、俗に隠亡谷と呼ばれていた。地獄橋という橋もあったというが、この辺りには川はないので、多分用水にかけた小橋だったのだろう。寛永年間、この辺りに稲荷を開こうとした村人たちが土を掘ってみると、夥しい数の人骨が出てきた。実をいうと、この土地はその昔、火葬場だったのだ。彼らは人骨の供養のため、坂上の三辻に地蔵をたてた。」
この地蔵は現存する道玄坂地蔵ということになろうが、そういう記述は見当たらない。
寛永年間というと1624年から43年まで。仮に火葬場だったとしても、「その昔」とあるから、寛永年間よりはるか昔のことと読める。徳川家康が江戸に入る前の時代ということだ。道玄坂と滝坂道と呼ばれた現在の神泉仲通が当時からあったことは確かなのだが、明治になっても昼なお暗いといわれ、道幅は3メートル程度、歩くところは1メートルもない山道のようなものだったとか。そのはるか250年以上も前、どこからそんなところにわざわざ遺体を持ち込んだのだろうか。1年に何人位の死者が近隣で出たのだろうか。当時は日本でも火葬が主流ではなかったろうから、住む人が少ない武蔵野では土葬が普通だったのではないか。駒場キャンパス内に現在でも墓地があるように、家の傍に埋葬するのがこの近辺の習慣であったと考えるのが自然だ。それにしても夥しい数の人骨が出てきたから火葬場だというのはおかしい。火葬場は埋葬場ではないし火葬しなくてもミイラにしなければ骨になる。
そこで推測なのだが、神泉の谷が隠亡谷と呼ばれた時代があったのは事実なのかも知れない。Wikipediaによると、隠亡は江戸時代までは「寺院や神社において、周辺部の清掃や、墓地の管理、とくに持ち込まれる死体の処理などに従事する下男とされていた」とある。平安時代からあった金王八幡や氷川神社などで働く隠亡と呼ばれた人たちがこの谷に住んでいたといえないこともない。それが明治期になって、隠亡が火葬場で荼毘をする人を指すようになり、そこから神泉が火葬場だったという誤解が生まれたこともあり得るのかもしれない。
「アースダイバー」は読まれている本のようなので、疑問を呈しておく。

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