駒場は目黒区、松濤は渋谷区、ということで、この二つの隣接する地域が並べて紹介されることはなかなかないようです。地域の情報は目黒区とか渋谷区といった行政区域の範囲ごとに流されるので、いくらすぐそばのことといっても、区が違うと知らないことになってしまいがちなのです。
駒場と松濤は三田用水を境界として、おそらく徳川時代から分かれていたのでしょうが、それでも徒歩圏のことであれば、人口も少ないので今よりはお互いに情報は流れていたと思われます。
明治以前の駒場は幕府の鷹狩場で、松濤には紀州徳川家の下屋敷と徳川の有力旗本長谷川久三郎の屋敷がありました。(長谷川家の屋敷は幕末には長谷川家から沼津藩水野家になったようです。)
そして明治5年に佐賀藩の11代藩主であった鍋島直大侯爵家が松濤の土地を買い取り、明治9年に松濤園と名付けられた茶園が開かれて現在の地名になっています。
駒場の鷹狩場は駒場農学校から帝国大学農学部となり、広い実験農場が作られましたが、それに隣接するように松濤側には農商務省種畜牧場ができました。
松濤ではその後、鍋島家による宅地分譲が進められましたが、そこに鍋島侯爵の邸宅ができたのは大正15年(1926年)とみられています。駒場に前田侯爵家の邸宅ができて前田利為侯爵一家が住むようになったのは4年後の1930年でした。
鍋島侯爵邸は1945年の空襲により焼失し、その跡地が松濤中学などになっています。
鍋島家は現在の松濤だけでなく円山町から神山町、富ヶ谷に至る広大な土地を明治初年から所有していて、前田家が昭和に入って駒場に転居し、獲得した土地の一部を分譲したことと比べると、鍋島家の宅地分譲の規模は大きなものになっています。
しかし、前田家の邸宅は空襲を免れ、重要文化財となって保護されているのに対して、鍋島家の痕跡は1933年に開園した鍋島松濤公園にとどまっています。
加賀100万石と佐賀35万石という2件の旧大名家の邸宅が20年にも満たない期間であったとはいえ近所にあり、100年の歳月を経ても当時をしのぶことができる貴重な文化遺産かもしれません。それが目黒区と渋谷区という二つの地域にまたがるため、一つの散歩コースとして紹介されないのが残念なことです。