東大駒場キャンパス「バラの小径」の一時閉鎖(2018-2-23)

駒場東大前駅東口は東大駒場キャンパス正門出口。その東側のバレーコートのあった場所に仮設体育館を建設する工事が2月27日から始まる。そのため工事がほぼ完成する5月末まで、正門横から数理科学研究棟に向かう、バラの小径とも呼ばれる通路はフェンスで閉鎖され、通行止めになる。

仮設体育館が竣工すると、キャンパス北側にある現在の体育館が取り壊されて、2020年の完成に向けて新しい体育館の建設工事に入る。新しい体育館の完成を受けて、これまでのバレーコートの場所は現状復帰予定とのことであるが、そこに何か新しい建物の計画ができないとは限らない。

いずれにしても、バラの小径が閉鎖されるのは今年の5月末までである。それからは、若くて元気な東大の学生たちが仮設体育館を利用し、バラの小径はこれまでどおり通行できるようになる。

5月に咲くバラを楽しみにしていた人には寂しいかもしれないけれど、6月には2番花も咲く。空が狭くなって、景観の変わることはやむを得ないとしなくてはならないだろう。

(花ざかりの季節のバラの小径)
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平昌オリンピック開会式の技術(2018-2-11)

2月9日に行われた平昌オリンピックの開会式。韓国・北朝鮮の接近と日本・アメリカの対応、あるいは、トンガの代表の上半身裸での行進がニュースになっているようではあるが、今回の開会式がオリンピック史上画期的ともいえる演出であったのではないかと注目している。

「映像の世紀」から「魔法の世紀」への転換を目に見える形にしていたからである。

「映像の時代に不可能だった物理的な干渉を起こし、容易に使え、精緻な結果をもたらす。それによる恩恵はまるで奇跡のように鮮やかであること。そしてその変化の速度はあまりに速く、その制御機構はあまりに難解なため、そこにある仕組みを理解するには難しく、一部の修練された人間にしか理解できないということ。日常にもたらされる奇跡とブラックボックス化の断絶が今後ますます、様々な社会変化をもたらすだろう。」(落合陽一『超AI時代の生存戦略』から)

この文章自体も難解ではあるが、この開会式の映像をビデオで見直すときの参考情報になりそうである。

光の波が重なりあって新しい波が生まれ、観客席全体に配置されたLEDパネルが揺れ動く。その動きとフィールドの光との連動。そして1218台の光るドローンがスタジアムから鳩の形で飛び立ち、五輪のマークを夜空に描くという、魔法としかいえないような演出。1218台ものドローンが絵を描きながらぶつかることなく空に舞う制御技術がどのようなものかを語れる人がどれだけいるものなのか。

ここで垣間見ることのできた技術は、これから日常生活の様々な場面に使われるようになるはず。「魔法の世紀」への突入を実感させるような開会式であった。

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地域猫と呼ばれる猫(2018-1-29)

もう7~8年も前のことだったか。商店街の人たちから可愛がられていた野良猫がいた。エサは十分に与えられていたようだった。それでも何年もしないうちにその猫は死亡した。するとまもなく、商店街の路肩に猫の写真が飾られた祭壇が設けられ、その前で手を合わせる人の姿が見受けられた。

地域猫ということばを最初に聞いたとき、その猫のことを思い出していた。
しかしそれは妄想でしかなかったのだ。

目黒区のホームページでは地域猫を次のように説明している。

無責任な飼い主に捨てられてしまった猫に端を発するノラ猫は、充分なエサや健康等の管理を受けていません。このため、ゴミ漁りやふん尿の被害等で多くの地域で問題を起こしています。
また、不妊・去勢手術を施されていない場合が多く、放っておくと驚くほど繁殖します。被害は更に拡大、恒常化し、ほとんどのノラ猫は地域の嫌われ者となっています。
「地域猫活動」とは、この全く管理されていないノラ猫を地域の方が管理することにより、ノラ猫のトラブルを少しでも減らしていこうという試みです。そして、その管理されている猫たちを「地域猫」と呼びます。

恐らく、日本全国でこのような理解なのだろう。地域猫とはノラ猫のトラブルを減らすために管理された猫ということになるようだ。「無責任な飼い主に捨てられてしまった猫」ということなのだが、責任ある飼い主ならどうするのか、という突っ込みを入れたくもなる。

野良猫という管理責任者が明らかでない存在は許しがたい。ただし殺処分は動物愛護の考えに合わないので、不妊・去勢手術をすることで自然消滅するようにしていく。という思想なのだろう。

猫は飼い主がいる限りはよい。そうでない猫はいらない猫だ、という考え方は、責任者のいない猫がいては困るということ。だから、地域コミュニティで共有する猫の存在が堂々と認められるのかどうか、となると残念ながら難しそう。どうも何にでも責任者を求めるのが現代日本社会のみならず、現代世界の常識のようにも思えるのではあるが。

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